有形文化財/歴史史料

小島疱瘡神社の算額

小島の長楽寺の裏手に疱瘡神社がある。この社殿に一枚の和算の額が掲げられている。「和算」の問・答・術を奉納した「数学の絵馬」を算額という。額面の前段には算術の起こりと掲額の経過が簡単に書かれており、奉納者である「渡部氏 定良」の氏名が記されている。

後段部分には、「問」3問が記され、上部には図式が描かれ、その下に、「問」「答」そして「術に曰く」として「解き方」の順できされており、最後に「明和六巳丑年三月吉日」(1769)とある。

渡部氏は当地の人物と考えられる。小島の問屋であった渡辺家は、原街道関係文書に「渡部」として表記されていることから、この渡辺氏である可能性は高い。

和算の流派は関流と最上流が知られているが、疱瘡神社に掲られた算額は関流のものと考えられる。

この算額は、佐野市大蔵町星の宮神社の算額(天和3年・1683)に次いで県内でも2番目に古いものであり、全国では14番目となる。

和算はその歴史は古く、奈良時代まで遡ることができるが、一般に定着したのは、江戸時代になってからである。掲額は江戸末期から明治にかけて多く見受けられ、和算の流布の時期と一致する。

この算額は明和6年(1769)に既に那須町に和算を学問として学んだ人物が居たことを知ることができ貴重な歴史資料であり、和算の全国的な普及状況や地方の学識力を知る資料である。

制札

制札は、高札ともいわれ問屋場や往来などの人の集まるところに掲げられ、「定」や「解書」などが書かれた板をいう。古くは、延歴元年(782)の太政官符に官符の内容を官庁や往来に掲示し、広く民衆に告知するよう命じた指示が出されたことに始まるという。以後、武家政権に引き継がれ、制度として全国的に確立したのは江戸時代である。江戸時代には、五街道や脇往還などの宿場、問屋に高札場が設けられた。

那須町には芦野健武山湯泉神社所蔵の15枚と小島の渡辺家所蔵2枚、伊王野鮎瀬家所蔵1枚の計18枚であるが、このほかにも所在が確認され、現在22枚を数える。

いずれも江戸時代のもので、寛永19年(1642)で、人身売買や伝馬駄賃を定めたものから新しいもので慶応4年(1868)の戊辰の役の際、新政府軍によって発布された太政官高札といわれるものまで江戸期全般を通したものである。

制札には、「定」「條々」「覚」が初めに書かれているが、中には一気に本文に入るものもある。書き出しについての決め事は不明であるが、「定」「條々」については幕府からの命令によって掲げられたものであろうと思われる。「覚」は、文書などの令達によって出されたものを、広く周知するために町年寄や名主、村役人などによって書き写され、掲げられたものと思われる。

江戸幕府による制札には、寛文元年(1661)の5枚の制札(撰銭・切支丹・火事場・駄賃・雑事)や正徳元年(1711)の5枚の制札(忠孝・切支丹・火付・駄賃・毒薬)が知られているが、明治新政府の五榜の掲示、太政官高札もある。

制札は明治6年(1874)に廃止が決定され、2年後には完全に撤去された。

現在保存されているものは、いずれも摩滅がひどく、判読することが困難で、乾拓により読み下した。

寛永19年のものには、芦野-大田原間(鍋掛や越堀が見えない)が一区間として荷物の継ぎ立てが行われていたことや宿駅間の駄賃銭など新事実が明らかとなっている。

板にかかれた文字として貴重な歴史史料である。

巡幸と史跡

明治維新という時代の大きな変革によって日本の近代化を進めた明治政府は、人心の統一と政治の安定を図ることが急務であった。明治の世となり、天皇を中心とする政治体制の整備が進んだとはいえ、世上不安な要素は多分に存在した。急激な近代化による逆風が吹き荒れたのである。身分制度の改廃により今まで特権階級にあった武士の反乱をもたらした。

このような世相の中、世に言う「六大巡幸」の担った役割は大きなものであった。天上人としての天皇の存在を身近に接することへの国民の喜びと期待は想像に絶するものがあったであろう。岩倉具視の歌碑には「此あたりは山深くて民の家屋もむづかしげなるわら屋ばかりなれども軒毎に旗立てゝ行幸をことほげるさまなり」と巡幸を迎える様子が窺がえる。また和歌は「みちのく鄙のはてまであきらけき 御代の日影を仰かぬぞなき」とあり、巡幸の与えた影響が少なくなかったことを一首の和歌によって知ることができる。

明治9年6月、明治天皇は奥羽地方を御巡幸のため、同日2日に皇居をご出発になった。2頭立の御馬車に召されて、奥羽御道を下られ栃木県に入られた。

那須町における日程は次の通りである。

12日 夫婦石御小休

芦野戸村謙橘宅御駐輦

13日 同所御発駕

高瀬渡辺兼三宅御小休

寄居佐藤勝次郎宅御小休

白河行在所御駐輦

明治14年7月の東奥と北海道巡幸は、同月29日に皇居を御発輦になり、翌月6月には夫婦石で御小休になられ、芦野行在所に御駐輦になった。

7日 同所御発駕

山中鈴木清二郎宅御小休

白河行在所御発輦

このじゅんこうから還幸される時の同年10月6日に再び山中鈴木清次郎宅に御小休、同日夜戸村宅に三度御駐輦、7日朝同所御発駕、夫婦石御小休、大田原、佐久山、宇都宮を経て皇居へ御還幸となった。

明治42年11月の那須野大演習の際、同月6日宇都宮の大本営を御出門、高久愛宕山の御野立場に行幸された。この大演習は日露戦争後はじめての特別大演習で、歩兵5師団、騎兵2旅団、御尾1旅団を南北2軍に分け、南軍は宇都宮・大田原間おり起動、北軍は白河・棚倉間より南進、那珂川を挟んでの軍事演習である。山縣、大山、伊東、東郷、乃木、奥の各将軍が陪席したという。大正4年に地域住民によって2.1haの地積を公園としてこの記念とした。

いずれも明治という日本の近代化への記録である。

私塾と寺子屋

江戸時代中期以降に顕著に見られる各藩による「藩校」、そして庶民の民間的教育機関ともいうべき、いわゆる「寺子屋」(手習塾)の存在である。

「寺子屋」は「寺小屋」ともいい、寺の僧侶が庶民を対象に世俗的な教育を行ったところから名付けられたといわれ、その起源は鎌倉時代まで遡るといわれている。しかし後の江戸時代に至り、寺のみでなく多くの場所で、庶民(その子弟)対象の教育機関ともいうべき営みが行われて、より一般化したもので、江戸時代を通して開設された「寺子屋」は、全国的で約一万に及んだといわれ、特に幕末にかけて増加し、都市部から農村部にまで普及した。

下野国(栃木県)の「寺子屋」の存在については不明な点が多いが概ね下表のとおりである。

河内郡 92 上都賀郡 41 下都賀郡 117
芳賀郡 25 塩谷郡 41 那須郡 30
阿蘇郡 92 足利郡 61 合計 449

(「栃木県教育史」昭和32年刊による。)

那須町における寺子屋(手習塾)は次のとおりである。

塾 名
所在地
主催者名
講義内容
時 期
鮎瀬塾
伊王野(上町)
鮎瀬 祐之丞園
読書手習、算術
1828〜1853
專称寺塾
伊王野(下町)
29世 円立和尚
詠み方、手習い
1711~1734
小山田塾
伊王野
(下町)
小山田虎 (秋水)
漢学国語、書道
1878~1925?
磯塾
伊王野
(下町)
磯 三喜
 
1770~1830?
松本塾
伊王野
(上町)
松本 伊豆正
読書習字、
珠算
1858~1868
田中塾
簑沢
田中覇山
 
1826~?
三森塾
伊王野(上郷)
三森 忠五郎
漢学
明治
加藤塾
芦野
(根古屋)
加藤三平
読書習字、珠算
1851~1897
吉成塾
芦野
(仲町)
吉成泰三
儒学漢学
1848~1868
大塩塾
芦野
(上野町)
大塩三朗
漢学
1873~1914
簗瀬塾
芦野
(根古屋)
簗瀬小膳
 
1868?~?

いずれも地方の武士や名主、僧侶、豪農の身分の人たちによる私塾の記録である。地域的には芦野、伊王野地区に限られているが、この他にも記録に残されていない私塾が存在したものと思われる。

道路元標

町内には那須村道路元標、芦野町道路元標、伊王野村道路元標の3基の道路元標がある。道路元標は、大正8年11月5日付け勅令第460号の「道路法施行令」により「市町村ニ1個ヲ置ク」と定められた。栃木県では、条例「道路元標ノ位置ニ関スル件」(大正9年8月27日 土第3584号)により、各市町村の道路元標の位置が定められ、那須町域の当時の各町村にも下記の位置に設置された。

・那須村道路元標

「小島地内国道第4号線ト府県道黒田原黒磯線トノ分岐点」

・芦野町道路元標

「府県道大田原芦野線ト芦野黒田原停車場線トノ分岐点(町役場前)」

・伊王野村道路元標

「伊王野地内駐在所前(府県道黒羽芦野線)」

那須村道路元標は、現在、大字寺子丙1番地、黒田原の現三田歯科医院入り口の西側にある。すなわち小島地内の旧那須村役場前(現在は十字路交差点)に設置されたものが、町村合併後、現在地に移動されたものである。芦野町道路元標は、現在も同じ位置、旧芦野町役場跡の芦野郵便局前にあり、道路面より一段高い石枠壇上に、大正5年建立と道標と並んで建てられている。

伊王野村道路元標は、現在、移動されて大字伊王野1418番地(上町)、伊王野小学校前交通信号機の東側にある。旧伊王野村役場直近の旧警察官駐在所前に設置されたものが、その後、現在地に移動されたものである。

これらの3基の道路元標は、昭和29年の町村合併により、その役目は失われてしまった。3基とも材質、形状はおなじである。

材 質  花崗岩

形 状  高さ×幅×厚さ

72×26×26㎝

官修墳墓

慶応4年(1868年)1月3日、京都の鳥羽、伏見で始まった戊辰戦争は、東征する新政府軍と後退する旧幕府軍の間で、各地において激戦が続き、那須地域では、大田原、関谷、塩原、塩野崎、板室、小屋(池田)、三斗小屋、片府田・佐良土等で、また近辺では白河、旗宿、棚倉、会津若松等で戦闘が行われた。

那須町域からは、新政府軍に与した黒羽藩の農兵(峰岸館、寺子館、迯室館、松子館、郷筒隊)、軍夫として、同じく芦野氏の兵士、軍夫として多くの者が戦闘に参加した。その際、不幸にも負傷、戦死した農兵、軍夫があった。

新政府軍側の戦死者については、官修墳墓として立派に1区画の墓地が与えられるなど手篤く葬られた。また、国の官修墳墓明細帳に掲載された。

しかし、近年、墓地の改修などにより、官修墳墓の体裁が失われ、墓碑さえ分かりにくくなってきている。

官修墳墓(官修墳墓の体裁を残している)

氏名 身分 戦死年月日 年齢 戦死(負傷)地 墓地
1 後藤勇助(幸義) 峰岸館農兵 慶応4・6・8 53 白坂(5・26) 蓑沢
2 井上鉄次郎(久武) 峰岸館農兵 慶応4・8・26 18 会津下郷 峰岸
3 渡邊慶次郎(忠次) 峰岸館農兵 慶応4・9・3 21 会津本郷 高瀬
4 池沢治右衛門(貞友) 黒羽藩軍夫 慶応4・9・5 43 会津若松 中重
5 深沢長兵衛(峰村) 黒羽藩軍夫 慶応4・9・5 33 会津若松 峰岸
6 八木沢巳之助(村芳) 迯室館農兵 慶応4・9・5 20 会津若松 柏沼
7 菊池藤右衛門(春宗) 黒羽藩軍夫 慶応4・9・8 61 会津飯寺 室野井

改修された墓(官修墳墓の体裁がういなわれている)

氏名 身分 戦死年月日 年齢 戦死(負傷)地 墓地
1 平山忠蔵(高知) 黒羽藩軍夫 慶応4・5・1 55 白河 小島
2 秋元常七(正章) 松子館農兵 慶応4・8・27 18 下郷(8・26) 松子
3 井上金太郎(頼雄) 松子館農兵 慶応4・9・5 21 会津若松 下瀬縫
4 阿久津広之助(義助) 黒羽藩軍夫 慶応4・9・5 40 会津若松 寄居
5 松本忠左衛門(金吉) 黒羽藩軍夫 慶応4・9・5 31 会津若松 寄居
6 相馬源太郎(正之) 黒羽藩軍夫 慶応4・9・5 23 会津若松 小羽入
7 高久仙蔵(盛光) 黒羽藩軍夫 慶応4・9・5 27 会津若松 狸久保
8 高根沢新助(勝成) 黒羽藩軍夫 明治元9・18 31 若松(9・5) 大沢

新政府軍戦死者の墓(官修墳墓明細帳には載っていない墓)

氏名 身分 戦死年月日 年齢 戦死(負傷)地 墓地
1 川島又兵衛(経道) 芦野氏士 慶応4・7・14 盤城石川 芦野
2 柘植善太夫 忍藩士 白河 芦野
3 塙祐七(藤原好孝) 阿波藩士 慶応4・8・3 芦野

軍馬補充部高津牧場事務所、土塁、境界石

馬は、古来、重要な軍備として戦争に使役されてきたが、軍馬は、明治政府が明治元年、伊達藩に軍用馬の仕立て方を委任したのが始まりで、その後、陸軍が軍馬養成所(後の軍馬補充部)を設立し、軍馬を育成供給した。

軍馬補充部の本部は、東京で、川上(北海道)、釧路、十勝、根室、三本木(宮城)、白河、高鍋(宮崎)、雄喜(朝鮮)に支部が設置され、平時4万頭の軍馬が飼育されていた。

白河支部は、明治30年、福島県西白河郡西郷村小田倉に設置され、翌31年、那須派出部が、旧那須村田畑(現田島)に、高津分厩が高津(現千振保育園周囲)に設置された。事務所のあった現在の田島からマウントジーンズスキーリゾート那須に至る約2000ヘクタールの用地に、広大な放牧場や飼育畑を造成し、戦地で乗用、輺重用として働く強健な軍馬育成のため、耕手や牧手と呼ばれた多数の人員と訓練場、厩舎、馬糧庫、暗渠排水、水車、トロッコ、トラクターなどの施設設備、農機具、最新の農法、畜産技術、獣医療法が投入された。当時数百頭の軍馬が飼育されていた。

民有地との境界及び放牧場や飼料畑の区画のために、基底幅約2.7メートル、高さ約1.8メートル、総延長百キロメートル余の土塁が設けられた。また、民有地との境界には、芦野石の境界石が埋設された。

那須派出部は、軍縮により大正14年に一時廃止されたが、昭和6年の満州事変の勃発により、昭和8年、高津牧場(事務所は現千振)として再興され、昭和20年の敗戦まで軍馬が飼育された。

軍馬補充部用地は、多くの戦後の開拓地になったが、高津牧場事務所は、現在千振保育園北側に残っており、土塁は、開拓により大部分破壊されたが、まだ林の中などに所々見られる。また、境界石も残っている。