記念物/天然記念物
湯泉神社のおおすぎ
芦野の湯泉神社の境内にある。樹高は約50m、目通り周囲6.45mで、樹齢約700年以上と推定される県内有数の大杉である。
数度の落雷にあっているが、樹勢はいまなお盛んである。
この湯泉神社は、那須余一宗隆(なすのよいちむねたか)の五世の孫資忠(すけただ)の三男資方(すけかた)が芦野の領主になってから勧請(かんじょう)したものと考えられており、以来芦野氏が代々敬ってきた神社である。明治まで芦野氏の隆盛とともに繁栄した。
社伝によると、室町時代末期の享禄(きょうろく)年間(1528~1532)に社殿の造営があり、芦野氏より60石寄進があった。また、大正9年(1581)にも改修等が行われた。さらに、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に18代芦野民部資泰(あしのみんぶすけやす)は、30石の社領を寄進している。明治2年、29代芦野資愛(すけちか)は藩籍(はんせき)を奉還(ほうかん)するとともに上地(じょうち)し、明治5年には郷社(ごうしゃ)となり、さらに同10年村社になった。
同社には宝物も多く、八幡神像(はちまんしんぞう)や馬面、20代芦野資親(すけちか)が奉納した句集などがある。
この大杉は、700年この地にあり、芦野氏の隆盛や芦野の里の人々の生活を見つめてきたことになる。
平成16年には樹勢回復事業が行われた。
平成29年9月17日~18日にかけて発生した台風18号により被災し、倒木や枝の落下、座屈などにより隣接する住民の生命及び財産の安全確保が図れないことから、所有者をはじめ地域住民の総意によりやむを得ず平成30年3月に伐採した。残された樹幹から樹齢700年の面影を感じることができる。
那須町のこうやまき
芦野氏陣屋跡(芦野城、桜ヶ城ともいう)に二の丸跡があるが、その東方の小高い所に高野槇(こうやまき)があり他の樹木を圧倒してそびえている。樹高は約24m、目通り周囲は約5m、推定樹齢は400~500年と考えられている。高野槇としては当地域きっての巨木である。
いつ植樹されたか明らかではないが、いくつかの言い伝えがある。その一つは、天文年間(1532~1555)に芦野資興(あしのすけおき)が、太田道灌(おおたどうかん)の設計で芦野城を築城し、その時の記念樹であるという。
現在も樹勢盛んであり、城跡にふさわしい威厳をもつ名木である。
八幡のミネザクラ
ミネザクラは、本州中部以北と北海道の山地・高原・高山帯に多くみられる桜で、栃木県でも1000m以上の山地にみられ、タカネザクラともいう。花期は、5月から7月までで、桜のなかではいちばん遅咲きである。花は、赤茶色の若葉と同時に開き、場所といい季節といい、時ならぬ花見のできる珍しい種類である。
八幡のミネザクラは、八幡温泉の北西、標高1000mほどの位置で、自然研究路沿いにある。樹木は2本あり、「上の木」は、樹高9m、目通り周囲1.6mあり、「下の木」は、樹高8m、目通り周囲1.8mである。2本とも直径が50㎝以上と見られ、推定樹齢は約150年である。普通、亜高山植物のミネザクラは、風当たりの強い土地にあり成長しにくく、幹の太さは直径20㎝以下が多く、木の高さも2m内外のものが多いという。八幡のミネザクラは、この樹種としては素直な伸び方をし、稀にみる巨木である。
茶臼岳を中心として那須の山々一帯は、植物の図鑑を見るように種類が豊富である。季節風や位置の関係から、北方系と南方系、表日本型と裏日本型の植物が混生している。
伊王野城址の樹林
伊王野城址は、那須七騎の一つである伊王野氏の山城跡である。伊王野氏が、居館を現伊王野小学校の地からその後背地であるこの地に移したのは、文明20年(1487)頃13代資清(すけきよ)の代と言われており、それから江戸時代初期の寛永4年(1627)22代資友(すけとも)まで約150年間、ここが伊王野氏の山城であった。この山城は、全体で約20haに及び広大である。現在、本丸跡・二の丸跡・三の丸跡、そして空堀(からぼり)等も縦横にみられ、自然の地形を巧みに利用しているのがわかる。また、トビノクラ(遠見の 郭(くるわ)の意)や召人沢(めしうどさわ)等の地名も残っており、伊王野氏の歴史や山城を考察する上で重要である。
この城址の南東斜面の約1haにわたって、約20本のケヤキの大木(樹高約20~25m、目通り周囲90㎝)を中心に、ヤブツバキ・クヌギ・コナラ・イロハカエデ・オオモミジ・カスミザクラ・ホオノキ・エノキ・クリ・イイギリ・ケンポナシ・エドヒガシ・シラカシ・アカガシ・イチョウ等が群生し、県北の一つの樹林のモデルとして指定されている。
山上に立つと那須連山と八溝山系が遠望でき、眼下には伊王野の町並みが一望できる。山上に至るつづら折りの道には、春になるとツバキやサクラ・ツツジの花が咲きほこり、秋には、モミジやイチョウの紅葉が美しく伊王野の人々の憩いの場所となっている。
温泉神社境内の杉並木
温泉神社は伊王野氏居館跡の東約500mほどにある。この参道に江戸時代初期、伊王野氏によって杉50本が植栽奉納されたとされているが、現在は28本が残っている。本町唯一の杉並木であり、樹齢数百年を経る。領主、伊王野氏の温泉神社に対する尊祟をうかがわせるものである。
当神社の創立については和同(わどう)2年(709)と伝えられているが詳かではない。伊王野資長(すけなが)(伊王野氏始祖)が当地に領地を与えられて、社殿を造営、以来伊王野郷の総社として、伊王野氏代々と郷民の祟敬をあつめた。大正13年に改築され現在に至っているが、この間、鎌倉、室町、江戸、それぞれの時代に造営が行われたという。主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこのみこと)、誉田別命(ほんだわけなのみこと)であるが、伊王野氏により八幡宮(はちまんぐう)も勧請(かんじょう)されている。他に多くの神社を合祀(ごうし)している。伊王野氏改易後の天領となっても、代々の代官、領民の尊祟があった。
伊王野温泉神社の大杉
伊王野温泉神社の本殿前に大杉二本がある。向かって左側のものは樹高34m、目通り周囲4.2m、右側のものは樹高33.8m、目通り周囲3.1mである。
樹齢については明らかではないが、参道の杉並木が樹齢約数百年といわれており、この大杉はこれよりも古木と思われる。これらは伊王野氏によって植えられ奉納されたといわれるもので、温泉神社に対する領主の崇敬(すうけい)をうかがわせる。
この温泉神社は、仁治(にんち)2年(1241)伊王野氏の祖先、資長(すけなが)が社殿を造営したと伝えられ、その後代々伊王野氏の崇敬をうけた由緒ある社である。現在の本殿は大正13年(1924)の造営された本格的な神社建築であり、この本殿とともに二本の大杉が境内を神域にふさわしい雰囲気にしている。
那須の五葉松
この五葉松は、那須湯本の温泉神社境内にある。五葉松は那須町の「町の木」に指定されている樹木である。
境内神殿に向かって左側の五葉松は、栃木名木百選にも選ばれている。樹高は約9mあり、目通り周囲は1.72mで推定樹令は400年以上と思われる。
社殿に向かい右側の五葉松は、樹高は約8.9m、目通り周囲は1.43mで推定樹令はこれも400年以上と思われる。2本の五葉松とも樹勢は今も盛んで生育が旺盛である。
那須の五葉松は、標高1600m以上の南月山(みなみがっさん)の西斜面から三本槍岳(さんぼんやりだけ)にかけても散在的にみられるが群落はない。これらの松はいずれも樹令100年以上のものである。神社境内の五葉松は那須山魂域に生育しているものと全く同一種である。
一般に那須五葉松と呼ばれている種類は、正式には「キタゴヨウマツ」の和名がある。
落合の海棲動物化石層
落合化石層は、那須複合扇状地の南東最扇端部、余笹川と黒川の合流点の河川敷地内にある。ここは、かつては海底であった所である。現在この付近は、余笹川の浸食を受け、15~20mの断崖が発達している。
この化石層は、新生代第三紀中新生以降(2500万年前)、塩谷層群鹿股層上部層準に位置し、岩質は、グリーンタフ時代末期の海底火山による噴出物及び海状砂泥堆積物でできた凝灰質砂岩及び凝灰質泥岩である。
最も多く採集される化石は、腔腸動物、六射サンゴで、その他腕足動物のチョウチン貝や軟体動物腹足類のエゾバイ貝とオキナエビスなどである。化石種から見ると比較的暖海性の貝類が多いので、当時この辺の海は暖かくまたかなり浅い海であったと考えられている。
現在この付近の地質は、風化が大で、もろく、母岩の風化が進んでいるため、完全な標本の採集は難しい。
上ノ宮「イチョウ」
遊行柳の、鏡山の麓に、「上の宮」と呼ばれる温泉神社がある。これは建武山(けんぶざん)の温泉神社に対して古くからそう呼ばれており、建武山の東方約1kmの所にある。新町(あらまち)の人々の崇敬(すうけい)を集めている。
勧請(かんじょう)や由緒(ゆいしょ)、沿革(えんかく)などは明らかではないが、社の歴史は古代にさかのぼるものと考えられており、温泉神社になったのは、中世以降、芦野氏によるものと思われている。
社の境内に向かって左側にイチョウの大木がある。樹高は35m、目通り周囲は6.1mである。樹齢は数百年と思われるが、樹勢はすこぶる盛んである。当地域では最大でしかも珍しい巨樹である。
揚源寺の「アスナロウ」
揚源寺(ようげんじ)は東蘆山地蔵院(とうろさんじぞういん)といい、天台宗である。芦野氏陣屋の大手を入った正面にあるが、その境内に向かって左手奥、渓流が流れる所に不動明神が安置されており、そのうしろに御神木がある。樹高は21.6m、目通り周囲は4.5mあり、樹齢は600年を数えるとみられている。アスナロウはヒノキ科の常緑高木で寒冷地の樹木であるが、このアスナロウは分布上南限に近く、平地に近い所でこれほどの巨木は珍しいという。当地方のアスナロウは最大の巨木である。
揚厳寺の創立年代はよくわかっていないが、江戸時代初期の寛永(かんえい)年間(1624~1644)に栄賢(えいけん)和尚が中興(ちゅうこう)開山し、芦野集落センター裏の愛宕山(あたごやま)から現在地に移転したと伝えられている。大正時代の初期、芳賀郡の延生(のぶ)の地蔵尊の分霊を移した。このアスナロウは、揚源寺がここに移転する以前からあったものと考えられる。