人見本曽良日記(ひとみぼんそらにっき)

松尾芭蕉(まつおばしょう)が「奥の細道」を旅したのは元禄2年(1689)のことであり、門人の曽良(そら)はこれに同行し「曽良日記」を残している。

「人見本曽良日記」はこの「曽良日記」の一部分を抜粋した写本で、那須湯本の温泉神社(人見家)に伝わっている。日記の期間は、元禄2年3月20日から5月17日までで、江戸深川から尾花沢までのものである。和紙半紙版に毛筆で書かれ、表紙とも21枚とじである。奥書(おくがき)があり、嘉永5年(1852)に書かれたことや、筆者は人見家祖先の人見氏綱(うじつな)であることなどが記されている。人見家は、芭蕉師弟が2泊した「湯本五左衛門」の本家にあたる。

しかしこの写本は、氏綱が「曽良日記」を直接写したものではなく、原本について二通り考えられている。

一つは、高久家(芭蕉師弟が2日宿泊した)にあったという曽良直筆のもので、これは「高久本」と呼ばれている。高久家は名主(なぬし)を勤める家柄であり、原街道(はらかいどう)開通後は問屋(とんや)をも兼ねた旧家である。「高久本」は、曽良が尾花沢までの日記を抜粋し、なんらかの理由で高久家に伝えたものと思われるものである。人見家は高久家とも親しい関係であったとことから、この「高久本」を写したものではないかといわれていたが、内容から別なものと判明した。(高久本参照)。

もう一つは、黒羽藩の郡奉行(こおりぶぎょう)で歌人でもあった小山田栄樹(えいじゅ)が書き写した「小山田本」と呼ばれているものがあって、これを書き写したのが「人見本」ではないかと考えられているが、「小山田本」の所在が不明なため定かではない。

いずれにせよ「奥の細道」関係書類として貴重なものである。

名   称 人見本曽良日記(ひとみぼんそらにっき)
所 在 地 那須町大字湯本182
種   別 有形文化財/書跡
指   定
指定年月日 昭和47年7月15日