狸久保獅子舞

狸久保講中(狸久保と後藤橋、新田、羽原、東狸久保、中の内)に伝わるものである。

おこりは明らかではないが江戸時代初期と思われ、この舞を神遊奉納することにより、講中に流行の悪病悪霊の侵入することなく無病息災すべて泰平であると伝えられている。

通称まっしゃ(増家か)を除く、本戸27戸(現26戸)で組織され、講中の戸主(男性)は必ず参加することになっている。戸主の後継者として、学校卒業後の長男や婿養子は若衆として加入することになっている。若衆世話人は2人制で、講中の上・下組より各1人が選出される。この世話人の指導統率は、絶対的なものであり練習に来ない場合は飛脚を立ても参加させるなど厳しい取り決めがあった。世話人の強い統率のもと、獅子舞を神信仰としてまた娯楽として講中の和を大切にしてきたのが永く続けられたという。しかし、時代も変わり、講中の農家形態も変わり以前の取り決めより柔軟になりつつあるという。

現在4月8日の村の祭りと、二百十日の嵐除けの2回新田の薬師堂の境内で、無病息災、五穀豊穣を祈念して奉納される。獅子頭は、牡2つ、牝1つで他に太鼓3つ、バチ3組、笛3本、笠(山)2つである。難しい笛手は、中の家の3戸が担当している。舞の仕方は、活発のほうであり、町内の獅子舞と共通点もあり同じ起源を持つものと思われる。獅子舞一式は、ことの仔細は不明であるが中の家の高久家在住に保管してある(現在は、別棟の専用庫に保存)。他の家に置くと夜中に獅子頭があばれたり、笛や太鼓が鳴り出し大騒ぎになって困るとの理由からである。高久家が火事になった時、獅子頭が一人でトウキビ畑に出ていたとの説が伝えられている。昭和後期までは、講中内、隣接集落での火伏せ、新、改築の家内安全の祈願のため獅子舞を奉納した。現在は、町役場庁舎落成式、田中小学校100周年等の祝事や町文化協会、郡郷土芸能フェスティバル等の行事に奉納披露されている。

名   称 狸久保獅子舞
所 在 地 那須町大字寺子乙(狸久保)
種   別 無形民族文化財
指   定
指定年月日 昭和54年4月1日