芦野氏新墳墓(あしのししんふんぼ)

芦野氏新墳墓は、御霊山(おたまやま)とも呼ばれ芦野(新町)(あらまち)の建中寺(けんちゅうじ)境内にある。寺の石だたみを上り、右側に折れるとやや小高い所に墳墓群がある。墓域は、奥まで約50m・幅は南側で7m、北側25mの細長い区域である。

本墓は、芦野氏19代民部資俊(みんぶすけとし)(資泰(すけやす)の子)をはじめとして、以後江戸時代末の27代資(すけ)原までの9代の墓域となっている。

資俊が元禄(げんろく)5年(1692)6月56才で芦野城内において病死して、建中寺に葬られてより、資源死去の安政(あんせい)4年(1857)4月までの165年間にわたり、当主9基の墓碑と夫人・子女等の墓碑22基の碑塔が建てられている。これら墓碑のうちで、最も豪壮なものは、19代資俊の墓である。地元産出の芦野石の玉垣を巡らし、石畳を敷きつめて大型の笠付位牌形(かさつきいはいがた)墓塔になっている。20代資親(すけちか)の墓碑は、大形の自然石の表面を磨いて碑としたもので、これも墳墓群の中で目を引く墓碑の一つである。他はほとんどが笠付位牌形で、何れも領主やその一族の墓碑塔としてふさわしいものである。

資俊は、芦野領地で逝去し建中寺に埋葬されたが、20代資親以降の領主は全て江戸に於いて逝去したため、駒込惣禅寺(そうぜんじ)に葬られて、分骨を本墓に埋葬したものである。

名   称 芦野氏新墳墓(あしのししんふんぼ)
所 在 地 那須町大字芦野1915
種   別 記念物/史跡
指   定
指定年月日 昭和37年10月15日