巡幸と史跡

明治維新という時代の大きな変革によって日本の近代化を進めた明治政府は、人心の統一と政治の安定を図ることが急務であった。明治の世となり、天皇を中心とする政治体制の整備が進んだとはいえ、世上不安な要素は多分に存在した。急激な近代化による逆風が吹き荒れたのである。身分制度の改廃により今まで特権階級にあった武士の反乱をもたらした。

このような世相の中、世に言う「六大巡幸」の担った役割は大きなものであった。天上人としての天皇の存在を身近に接することへの国民の喜びと期待は想像に絶するものがあったであろう。岩倉具視の歌碑には「此あたりは山深くて民の家屋もむづかしげなるわら屋ばかりなれども軒毎に旗立てゝ行幸をことほげるさまなり」と巡幸を迎える様子が窺がえる。また和歌は「みちのく鄙のはてまであきらけき 御代の日影を仰かぬぞなき」とあり、巡幸の与えた影響が少なくなかったことを一首の和歌によって知ることができる。

明治9年6月、明治天皇は奥羽地方を御巡幸のため、同日2日に皇居をご出発になった。2頭立の御馬車に召されて、奥羽御道を下られ栃木県に入られた。

那須町における日程は次の通りである。

12日 夫婦石御小休

芦野戸村謙橘宅御駐輦

13日 同所御発駕

高瀬渡辺兼三宅御小休

白河行在所御駐輦

明治14年7月の東奥と北海道巡幸は、同月29日に皇居を御発輦になり、翌月6月には夫婦石で御小休になられ、芦野行在所に御駐輦になった。

7日 同所御発駕

山中鈴木清二郎宅御小休

白河行在所御発輦

このじゅんこうから還幸される時の同年10月6日に再び山中鈴木清次郎宅に御小休、同日夜戸村宅に三度御駐輦、7日朝同所御発駕、夫婦石御小休、大田原、佐久山、宇都宮を経て皇居へ御還幸となった。

明治42年11月の那須野大演習の際、同月6日宇都宮の大本営を御出門、高久愛宕山の御野立場に行幸された。この大演習は日露戦争はじめての特別大演習で、歩兵5師団、騎兵2旅団、御尾1旅団を南北2軍に分け、南軍は宇都宮・大田原間おり起動、北軍は白河・棚倉間より南進、那珂川を挟んでの軍事演習である。山縣、大山、伊藤、東郷、乃木、奥の各将軍が陪席したという。大正4年に地域住民によって2.1haの地積を公園としてこの記念とした。

いずれも明治という日本の近代化への記録である。

名   称 巡幸と史跡
所 在 地 那須町大字芦野、横岡、寄居
種   別 有形文化財/歴史史料
指   定
指定年月日