伊王野氏の新墳墓(いおうのしのしんふんぼ)

伊王野城本丸の東麓に曹洞宗桃林山長源寺(ちょうげんじ)があり、その境内に墓域がある。長源寺は弘治元年(1555)伊王野氏18代資直(すけなお)の中興開基となり、それ以来の伊王野氏後期の菩提寺(ぼだいじ)として寛永10年(1633)の伊王野氏廃絶までの領主とその家族の墓がある。五輪塔4基、自然石碑3基が残っている。

伊王野氏は中世那須本家の発展隆盛と共にあったが、天正18年(1590)の秀吉小田原北条氏攻略の時、参陣が遅れ減封の憂き目にあった。しかし、慶長(けいちょう)5年(1600)上杉景勝の奥州軍を白河関山(せきさん)に破り、徳川氏より2000石加封され2738石となったが昔日の面影(約1300石)はなくなった。同年、資信の嫡男資重(ちゃくなんすけしげ)病死し、資重にその年生れの一子又六郎資直(またろくろうすけなお)があったが幼少であり、そのため資重の弟資朝(すけとも)(資友)が家督を継いだ。資朝も寛永(かんえい)10年(1633)5月に死去し、養子(資朝には男子がなかった)の資房(すけふさ)(井上数馬(かずま))も同年10月父のあとを追って早世した。数馬の病中に養子願いを出したが幕府には認められなかった。

ここに、資長(すけなが)以来約400年間続いた伝統ある伊王野氏も幕府の政策・法規により改易、断絶するのである。所領は天領(幕府直轄)となって代官手代により治められた。

墓域は徳川幕府にはばかってか暗く小さい。隣接する現代の豪華な墓石と比べ、かつての領主の墓と思われない質素さである。

名   称 伊王野氏の新墳墓(いおうのしのしんふんぼ)
所 在 地 那須町大字伊王野2019(長源寺)
種   別 記念物/史跡
指   定
指定年月日 昭和36年10月1日