軍馬補充部高津牧場事務所、土塁、境界石
馬は、古来、重要な軍備として戦争に使役されてきたが、軍馬は、明治政府が明治元年、伊達藩に軍用馬の仕立て方を委任したのが始まりで、その後、陸軍が軍馬養成所(後の軍馬補充部)を設立し、軍馬を育成供給した。
軍馬補充部の本部は、東京で、川上(北海道)、釧路、十勝、根室、三本木(宮城)、白河、高鍋(宮崎)、雄喜(朝鮮)に支部が設置され、平時4万頭の軍馬が飼育されていた。
白河支部は、明治30年、福島県西白河郡西郷村小田倉に設置され、翌31年、那須派出部が、旧那須村田畑(現田島)に、高津分厩が高津(現千振保育園周囲)に設置された。事務所のあった現在の田島からマウントジーンズスキーリゾート那須に至る約2000ヘクタールの用地に、広大な放牧場や飼育畑を造成し、戦地で乗用、輺重用として働く強健な軍馬育成のため、耕手や牧手と呼ばれた多数の人員と訓練場、厩舎、馬糧庫、暗渠排水、水車、トロッコ、トラクターなどの施設設備、農機具、最新の農法、畜産技術、獣医療法が投入された。当時数百頭の軍馬が飼育されていた。
民有地との境界及び放牧場や飼料畑の区画のために、基底幅約2.7メートル、高さ約1.8メートル、総延長百キロメートル余の土塁が設けられた。また、民有地との境界には、芦野石の境界石が埋設された。
那須派出部は、軍縮により大正14年に一時廃止されたが、昭和6年の満州事変の勃発により、昭和8年、高津牧場(事務所は現千振)として再興され、昭和20年の敗戦まで軍馬が飼育された。
軍馬補充部用地は、多くの戦後の開拓地になったが、高津牧場事務所は、現在千振保育園北側に残っており、土塁は、開拓により大部分破壊されたが、まだ林の中などに所々見られる。また、境界石も残っている。
名 称 | 軍馬補充部高津牧場事務所、土塁、境界石 |
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所 在 地 | 那須町大字寺子丙他 |
種 別 | 有形文化財/歴史史料 |
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