二岐ヶ峰城跡(ふたぎがみねじょうあと)

城跡は、簑沢(みのざわ)の三蔵(さんぞう)川と大ヶ谷方面から流れる木下(こじた)川の合流点に囲まれた高台にある。城跡の北方の高戸山(たかとやま)を主峰とする一連の突き出た所を巧みに利用した城といえる。城跡は、その険しい地形を削り取ったり、空掘を設けてたりして築城している。地域の人々は要害山(よいがいさん)と呼んでいる通り、戦乱時の拠点にふさわしい山城である。その居館は、簑沢養福院(ようふくいん)と要害山の間にある馬蹄形(ばていけい)の谷を入った辺りにあったものと推定される。

城の構築については詳かではないが、文政(ぶんせい)年間(1818~1829)の写本「簑沢村二岐ヶ峰城之古記」によると、南北朝時代に上野国新田氏(こうすけのくににった)氏の一族が築城して、以後その子孫が拠点としたと記されている。また、芳賀(はが)系図によると鎌倉時代に芳賀高俊(たかとし)の次男重広(しげひろ)は那須頼資(よりすけ)に従い、大田原の地を領地として、その子重行(しげゆき)が簑沢郷に住んだと記されている。

上記のことから、新田氏か芳賀氏による築城かは明らかではないが、以後戦国時代末からは「三野沢(みのさわ)氏」が現れ二岐ヶ峰城の主となったともいわれている。いずれにしても、この地が奥州と接する旧関街道を見下ろす好位置にあって、軍事上重要な場所であったといえる。

元文(げんぶん)2年(1737)城跡の北西地区を開墾した際に、土中から石棺が発見された。棺の中には人骨があり眼孔に朱を埋めて歯牙に金箔がついてあった。人々は、新田氏の遺骨であるとして、「無名君家(むみょうくんけ)」と題する碑を建立している。

名   称 二岐ヶ峰城跡(ふたぎがみねじょうあと)
所 在 地 那須町大字簑沢
種   別 記念物/史跡
指   定
指定年月日 昭和47年7月15日