高久靄厓とその作品(たかくあいがいとそのさくひん)
寛政8年(1796)~天保14年(1843)
靄厓は那須塩原市越堀近郊の杉渡土の農家に生まれ、幼少より絵を好み、煙草職人や馬方などをして生活するかたわら、黒羽の小泉斐、壬生の平出雪耕について絵を学んだ。その後、鹿沼の鈴木松亭や、当時日本橋で成功した豪商菊池淡雅の後押しで、文政6年(1823)27歳の時、江戸に出て、谷文晁(たにぶんちょう)の門人となった。文晁の写山塾に通い、やがて文晁門四哲(渡辺華山(わたなべかざん)、椿 椿山(つばきちんざん)、立原 杏所(たちはらきょうしょ))の一人に数えられ活躍した。
菊池淡雅は関東の文人達の大パトロンだったが、特に同郷の靄厓には援助を惜しまず、靄厓もまた、淡雅の作品購入時の鑑定を勧め、自らの画風を確立する上で、大きな機会を得たといえる。
靄厓は生涯を通じて江戸の他、北陸、仙台、関西などの旅に出ているが、鹿沼を拠点として活動していた。しかし天保8年(1837)、妻を伴って江戸に永住を決意。天保14年(1843)4月8日、両国薬研堀晩成房においてその生涯を閉じた。死因は脳溢血とも肺病ともいわれ、谷中天龍院に葬られている。
靄厓の画風はおおよそ三期に分けることができる。
第一期は、如樵と号し、池大雅に私淑した時期。第二期は、中国から舶載された本格南宗画に学び、自らの南画を切り開こうとしていた時期で、靄厓樵者と号していた。
第三期は、疎林外史と号し、晩年にかけて独自の画風を確立していった時期である。
靄厓の山水画は、特に画家としての本領が発揮された分野といえよう。自然を写実的に描写し、山裾や谷間を霞に隠し、空間的な深淵さを持たせている。また、中国の名蹟に倣ったことから、立体的な遠近感を備え、リアリズムに富んだ作品となっている。
名 称 | 高久靄厓とその作品(たかくあいがいとそのさくひん) |
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所 在 地 | 那須野が原博物館所蔵 |
種 別 | 有形文化財/絵画 |
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