伊王野氏居館跡(いおうのしきょかんあと)

現在の伊王野小学校の校地すべてが伊王野氏居館跡である。この居館は鎌倉時代初期(約800年前)、伊王野資長(すけなが)の築城と伝えられている。資長は、那須余一の異母弟で那須家の惣領となった頼資(よりすけ)の次男である。

ここに居館があったのは、室町時代の長享(ちょうきょう)元年(1487)頃に後背地の山城に移るまでの約300年間とさらに下って江戸時代の寛永(かんえい)4年(1627)から同10年(1633)の6年間であった。

この居館は伊王野谷の最も広い所に位置し、当時の主街道の一つである東山道沿いにある。この形態は背後を流れる根岸川(ねぎしがわ)を利用して四方に掘を巡らし、その揚げ土で土塁を築き、回字形プランを持つ中世居館の典型的なものである。

明治の地租改正時の実測公図によると、住時の居館の面影をほぼ完全に残していることがわかる。すなわち土塁はすべて残っていて、堀の東側は畑になり、南側は破壊されて道となり、西側はわずかに町掘として形跡をとどめていた。北側は根岸川利用なので、そのままの状態であった。居館の大きさは東西約111m、南北約126m、面積約1.5haで当地域の居館としては大きい方に属する。

居館が山城に移った後の約150年間と伊王野氏断絶後の江戸時代初期以降は正福寺境内(しょうふくじけいだい)となっていた。明治以降は、小学校や村役場が建てられ、土塁等も破壊されてわずかに小学校北側にその面影を残すのみとなっている。

名   称 伊王野氏居館跡(いおうのしきょかんあと)
所 在 地 那須町大字伊王野1537
種   別 記念物/史跡
指   定
指定年月日 昭和35年10月15日