有形文化財/彫刻

金銅阿弥陀如来立像

專称寺(伊王野氏初期の菩堤寺)に伝わる本尊である。本仏像は、善光寺式とよばれる一光三尊(いっこうさんぞん)(三つの仏像に一つの光背(こうはい))の主尊(しゅそん)で、阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)である。

金銅仏で高さは48㎝ある。顔は整って美しく、金箔も制作当時の金色も今に伝えている。

背銘は、

下野国北条郡那須庄伊王野郷

文永四年丁卯五月日 佛師藤原光高

願主左衛門尉藤原資長也

とあり、鎌倉時代の文永4年(1267)5月、藤原光高という仏師によって制作されたことがわかる。願主 左衛門尉 藤原資長(がんしゅ さえもんのじょう ふじわらすけなが)というのは、那須余一宗隆(よいちむねたか)の異母弟で、那須家の惣領(そうりょう)となった頼資(よりすけ)の次男である。資長は約800年前に伊王野に領地を与えられ、旧伊王野小学校の校地にあたる場所に居館を構えたと考えられている。兄は光資(みつすけ)といい、那須家を継いで、建久4年(1193)には源頼朝の那須野ヶ原の巻狩で活躍した。

本仏像が制作されたころ、資長が何歳であったかは明らかではないが、巻狩の時にはすでに出生したとすれば、本仏像は資長晩年の制作と考えられる。

專称寺の開山は、弘安3年(1280)時宗(じしゅう)の遊行 上人二祖(ゆぎょう しょうにんにそ)、真教上人(しんきょうしょうにん)、によるとされているが、もともとは資長が本仏像を置いた持仏堂が專称寺の前身であったと考えられている。

本仏像は、制作依頼者、所在地、制作者、制作時期が明らかであり伊王野氏との関係で貴重であるばかりでなく、美術的にもたいへん優れている。

金銅勢至菩薩立像

伊王野時宗專称寺の本尊である金銅阿弥陀如来立像の脇侍(わきじ)で、善光寺式と呼ばれる一光三尊(いっこうさんぞん)(一つの光背に三体の仏像)のうちの一体で、金銅製の勢至菩薩立像である。この形式のものは鎌倉から室町時代にかけて流行し、浄土教系の宗教と結びついて制作されたという。本仏像は鎌倉期の中ごろ制作されたものである。

本仏像の顔はなごやかで美しく慈悲に充ちている。高さは33.7㎝あり、両腕を消失している。

背銘があり、内容は本尊のものとほとんど同じであるが、所在地である「伊王野郷」の「郷」の一字だけ省略されて記されていない。

この背銘により、制作依頼者は伊王野氏の祖先の「左衛門尉 藤原資長」(さえもんのじょう ふじわらのすけなが)であること、制作者は「藤原光高」(ふじわらみつたか)という仏師であること、所在地は「下野国北条郡那須庄伊王野」(しもつけくにほうじょうぐんなすのしょういおうの)と呼ばれていたこと、また制作は「文永4年5月」(1267)であることが明らかになっている。

專称寺の歴史はこの仏像とともに始まり、長く伊王野の菩提寺であった。この仏像は江戸時代のころ盗難にあい、昭和30年東京で発見され数百年ぶりで伊王野の地に戻った。もう一つの脇侍、観音菩薩立像の行方はいまだに判らない。

聖徳太子立像(木造)

芦野から簑沢(みのざわ)へ抜ける山あいに、大ヶ谷地区があり、ここの太子堂の本尊で、聖徳太子の立像である。

この立像は桧(ひのき)材彫刻の一木造りで、高さ41㎝である。背面に穴があり、光背(こうはい)があったようである。髪は、古墳時代の男子の髪型である美豆良(みずら)に結い、法衣をつけた姿をしている。背銘(はいめい)には、

太永三○○

三森安藝

と珍しい釘書きで線刻されている。文政10年(1827)に書かれた太子堂(たいしどう)由来額分によると、当地の三森氏の祖先、三森安芸隆満(あきたかみつ)の発願(はつがん)により大永3年(1523)に造顕(ぞうけん)されたものである。○○は判読不明である。

作風は、素朴で、地方仏師の手によるものと思われる。工匠(職人)の祖として祀られ、太子信仰の一端がうかがえる資料であり当地域では数少ない中世の作品である。造られてからの補修の跡もなく、また金石文(きんせきぶん)としても貴重である。

薬師如来立像付 十二神将

伊王野正慶寺(いおうのしょうけいじ)付属の沼野原(ぬまのはら)薬師堂の本尊が、薬師如来立像で、十二神将はその眷族(けんぞく)として祭られている。正慶寺は、山号を龍沢山(りゅうたくざん)と称し、曹洞宗で本尊は観音菩薩を安置してある。寺の伝えによると、貞享(じょうきょう)3年(1686)洞孫(どうそん)和尚によって開かれたと言われている。

薬師堂は、古くは熊野堂(くまのどう)と称する伊王野の郊外にあったが、寛政9年(1797)5月に現在の地に移転された。

薬師如来立像は、一木造(いちぼくつく)りで彩色が施されて、円形の台座は高さが、12.12㎝、直径が19.07㎝である。像の高さは、56.07㎝、肩幅は19.09㎝で裾の広さも肩幅と同じ大きさである。

背面には

嘉吉三年  大旦那教善  敬白

葵亥八月日  薬師如来

と墨で書かれてある。このことから、薬師如来像は嘉吉3年(1443)の作であることがわかる。大旦那教善(きょうぜん)の人物については、わからないが、伊王野氏関係の入道名ではないかと考えられる。

十二神将像は、小さいながらも寄木(よせぎ)造りであり、像の高は28㎝内外でどれにも彩色が施されている。

薬師如来立像・十二神将ともに、地方仏師の作ではあるが、本尊とその眷族共に揃っていて、当地域の人々の信仰厚い尊像であったことをうかがい知る事ができる。また、この尊像は県内でも室町時代の貴重な遺品の一つとなっている。

なお、現在の薬師堂は昭和52年8月に火災にあって、その後再建されたものである。

薬師如来座像

この仏像は、伊王野の東岩崎にある7、8世紀の頃と推定される遺跡「堂平仏堂跡・茶上代畑集落跡」で発見された鋳鉄製、百済様式の薬師如来座像である。この遺跡には火痕が残る仏堂の磁石が現存しており、遺構内外から土師器・須恵器が出土し、また、釘の固まりや鉄塊などが発見されている。

奈良・平安期に、この地にも仏教文化が花開いていたことが想像される。

像の高さは、15.1㎝、肩幅8.0㎝、座幅12.7㎝で百済からの伝来仏とされ、7、8世紀のものと考えられていたが、その後の調査で平安期・(9、10世紀頃)の地方仏師作の仏像との見方もなされている。

釈迦誕生仏立像

薬師如来座像が発見された西方50m地点から、畑の耕作中に見つかったのが、この鋳銅釈迦誕生仏立像である。手先や台座等が欠けているが清楚で柔和な顔付きの仏像である。その高さは、8.1㎝で、鍍金が施されていたと思われる。7、8世紀頃の作といわれてきましたが、その後の調査で平安時代の作と推定されている。

薬師如来座像と釈迦仏像の発見は、渡来人による仏教の伝播とする説を導き、近くの唐来田(唐から来た)地区の渡来人説と関連付ける説を唱える人もいる。