有形民俗文化財
前久保のドウロクジン
双体道祖神は、全国では長野県を中心とした中部地方に数多く分布するが、那須町ではこの一躯のみが確認されている。
この道祖神は、黒田原から田中の間の町道の途中・下川と前久保間にある峠を120m程下がった右側の道端にある。
もとは峠にあったものであるが、道路の改修に伴い峠から北側の畑中へ移動し、それから現地へ移転したものである。
形態はよく見られる舟形をしており、男(右)女(左)ニ神の双体道祖神で、全体の高さは約60㎝、本体の部分は約51㎝、台座の高さは約9㎝、横30㎝である。碑の上部には注連縄状のものが飾られ、中央に男女二体神の像、像の右左に建立年月「文化13年子年(1816)」と「正月大吉日」が分けて刻まれている。男女二体神は直立して前方を向き、男神は右手に盃を持ち、女神は瓢箪の銚子を傾け、酒を注いでいる姿を浮き彫りにしている。
道祖神は本来「道の神」=旅人の安全を祈る神で、「道陸神(ドウロクジン)」「塞の神(サイまたはサエノカミ)とも呼ばれている。庚申・猿田彦・金精(男根)その他の信仰と交錯混合しあい、村境、峠、辻、橋のたもとに建って、外敵や疫病の侵入、道路の悪霊を防ぎ、ひいては縁結びや子どもを守る神として雑多な効験を担うようになった。
前久保のドウロクジン建立時期には、町内で疫病が大流行し、火災も頻発した記録が残っており、建立の一つの要因と考えられる。那須町には他に「道祖神」の文字碑や男根を模った碑が確認されているが、双体道祖神は本像のみであり、希少価値とあわせ当時の信仰と時代背景を推察できる貴重な資料である。
板碑
一般に「板碑」といわれている石仏がある。板碑とは、共通した基本型として板状に加工された石の頭部を山形とし、その下部に二条の鉢線を切り込み、塔身部には上部に種子を彫り、下方に紀念銘、偈、真言等を刻んだものとされている。
板碑は卒塔婆の一形式をなし、生者あるいは死者の供養のために造立されてきた。また、時代が下ると月待、庚申侍、念仏などの供養として造立されるようになった。
その板碑は、年代的にはごくまれに近世の初期のものが見られるが、中世にのみ造られたという特異性がある。地域的にはほぼ全国的に分布しているが、形状、材質等、地域によって各々特色がある。材質では凝灰岩、緑泥片岩、花崗岩等がある。関東地方では緑泥片岩が産出されるので、これを材料とした板碑が大部分を占める。これを関東型板碑といっている。この他に九州型、下総型、奥羽型と呼ばれる各々の特色をもった板碑がある。ここ芦野は関東に属しながら緑泥片岩を産出する秩父から遠く離れているのと地元で芦野石が産出されることから、火山岩の凝灰岩を使った板碑が見られる。いわゆる奥羽型と云われる碑身に厚みのある板碑である。奥羽型板碑が関東地方で見られる数少ない例である。
那須町で現在確認されている奥羽型板碑は下表のとおりである。
また、関東型板碑と云われるものとしては「至徳年号在銘板碑」がある。この板碑は旧芦野小学校(現那須町役場芦野支所)新築の際、愛宕山寄りの校庭造立時にその敷地より出土したもので、秩父産の緑泥片岩(青石)で造られている。碑の一部が欠損していて、その断碑面に「至徳」と判読できる文字が認められているので「至徳年号在銘板碑」と呼んでいる。
もう一つは、寄居地内奈良川右岸の竹林の中に大きな岩がある。その岩の面を四角に彫り込み、そこに緑泥片岩を額のように形成した板状の面に蓮華座と種字(キリークか)を薬研彫りにしている、その下方に記念銘が「三月」と確認できるが、その他は判読できない。
那須町で現在確認されている奥羽型板碑は下表のとおりである。
所在 | 材質 | 造立年 | 寸法(㎝) | 銘文 | ||
奥羽型 | 1 | 芦野 西光寺 |
芦野石 | 慶長 17年 (1612) |
131× 54× 33 |
南無阿弥陀 仏信蓮社唱誉皈讃和尚 慶長十七壬子年十月廿一日 |
2 | 伊王野 專称寺 |
芦野石 | 不明 | 現在部 57.5× 32.5× 9 |
不明 | |
3 | 簗瀬 簗瀬氏 墓地 |
芦野石 | 不明 | 現在部 127× 48× 22 |
不明 | |
4 | 簗瀬 簗瀬氏 墓地 |
芦野石 | 不明 | 現在部 30× 28× 11 |
不明 | |
5 | 伊王野 油田 権現堂跡 |
芦野石 | 不明 | 現在部 65× 23× 9.5 |
種字弥陀一尊 (キリーク) |
|
6 | 山中 鎮守の森 |
芦野石 | 不明 | 130× 38× 24 |
種字(カ) | |
7 | 芦野三光寺 | 芦野石 | 不明 | 95× 45× 14 |
種字 | |
関東型 | 1 | 芦野 那須歴史 探訪館 |
緑泥片岩 | 至徳年間 1384- 1386 |
現在部 39× 23× 2.7 |
蓮華座上に 種字弥陀一尊 (キリーク) 至徳(カ) |
2 | 寄居本郷 | 緑泥片岩 | 不明 | 56× 24.5× 3 |
蓮華座上に 種字 □□□三月 |
また、関東型板碑と云われているものとしては「至徳年号在銘板碑」がある。この板碑は旧芦野小学校(現那須町役場芦野支所)新築の際、愛宕山寄りの校庭造成時にその敷地より出土したもので、秩父産の緑泥片岩(青石)で造られている。碑の一部が欠損していて、その断碑面に「至徳」と判読できる文字が認められるので「至徳年号在銘板碑」と呼んでいる。
もう一つは、寄居地内奈良川右岸の竹林の中に大きな岩がある。その岩の面を四角に彫り込み、そこに緑泥片岩を額のように成形した板状の面に蓮華座と種字(キリークか)を薬研彫りにしている、その下方に紀念銘が「三月」と確認できるが、その他は判読できない。
観音坂の磨崖仏
国道294号線(旧奥州街道)を芦野から北へ7㎞程行くと、寄居という集落がある。その寄居の手前500m位のところに昔から観音坂と呼ばれている切り通しの坂がある。何回かの道路改良工事により今は坂道らしくなくなってしまっている。
その坂道の頂上付近から東側の山の中へ50m位入っていくと、うっそうとした竹林に囲まれて露出した大きな岩山が立ちはだかっている。その岩山の基部に磨崖碑がある。光背を舟形に彫り込み、その上部には一尊種子キリーク(千手か如意輪観音)を刻み、右側下方に西蓮とあるが紀念銘は見当たらない。大きさは高さ127㎝、幅60㎝程である。この磨崖碑の上方約5m位のところに磨崖仏が陰刻されている。坐像で坊主頭、衲衣を身につけ合掌印を結んでいる。かなり風化が進み、像容の判読が難しい状態である。仏像の大きさは高さ55㎝、幅60㎝である。この仏像と一体となって二つの種子と一つの五輪塔が陰刻されている。仏像は如来でも菩薩でもなく、像容から見ると高僧か修行僧のようでもある。
磨崖碑は昔から知られているが、磨崖仏は近年までその存在は知られていなかった。
この磨崖碑と磨崖仏は同一人により同一時代に彫られたのだろうか。しかし、風化の進み具合から見ると磨崖仏の方が古いと思われる。
いずれにせよ岩面に紀念銘はなく、何時頃誰によって彫られたものか知るよしもない。
中世から近世にかけ修業僧が修業のために、あるいは自らの信仰心を高めるために全国各地の山の中に磨崖仏を造ったと伝えられている。
奥州道中分間延絵図(文化年間)には「観音坂」「観音」「観音山」等と図示されている。
これらのことを考え合わせると江戸時代には既に存在していたと云うべきだろう。