記念物/史跡

唐木田古墳

那珂川と黒川の合流水系最奥の古墳として知られる舟戸古墳群は町の文化財に指定されており、関東の古墳としては北端に位置する古墳として知られているが、これまでの史料から更に北に位置する場所にも古墳がある。唐木田古墳である。

唐木田古墳は芦野の南、芦野氏旧墳墓に隣接した竹林の中にあり、その形状から方墳である。唐木田は「唐来た」であり、古くから渡来人説が残っている。

持統天皇元年(686)、3年、4年に「以投化新羅人居下野」とあり、大陸からの渡来人を下野国に住まわせたことが記録されており、唐木田もその比定地と考えられている。その要因の一つが古墳である。方墳は渡来人の墳墓の例も多く、又この地に居住した室越氏や船山氏が渡来人と深くかかわりのある苗字といわれている。

室越氏は諸越(もろこし)で海山を越えてきた意で、江戸時代には芦野家家臣に室越氏がいた。船山氏も山間に船は不似合である。船が山へ登る意であれば、船山氏もまた渡来人の末裔であろうか。

未確認の古墳はまだまだある。竹の花古墳、聖天原古墳、下城古墳及び上新田古墳群など芦野伊王野地区に集中している。古代の史料の中に那須町が出てくることは稀であるが、古墳という歴史史料の存在が、那須町の古代史を明らかにしてくれる日が訪れることもさほど遠くない時期であろう。

刑部郭跡

刑部郭は、芦野唐木田の裏山、芦野氏旧墳墓裏手にある。

由来は定かではないが、その麓に屋敷跡が残っている芦野家の重臣、室越氏の要害であると考えられている。

この郭跡は、室町時代後期の頃の構築とみられるが、麓にある室越氏の居館と考え併せれば、あるいはそれ以前に要害として利用されていたと考えられる。

ここは、後に芦野氏陣屋が構築される丘陵の一支丘突端の急傾斜上に位置し、北が山続きで他三方は水田に囲まれ、また館山城とは東西呼応する位置にある。おそらく芦野谷を切断する機能と目的のために古くから要害(支城)として構築されていただろうと推定される。

すぐ南に「竹の花」の地名が残り、また麓の居館跡は「改訂版那須国造碑考」によると、『かつては二十間(36.36m)に三十間(54.54m)、高さ四尺(1.25m)の土塁をめぐらしていた。(明治の終わり頃平地削平した)』とのことからも、古くから軍事的に重要視された場所であることが想像できる。