有形文化財/書跡

喰初寺の題目碑

喰初寺は、那須温泉街の入り口の新那須にある。この寺の由来によると、日蓮上人が病気療養のため那須に来湯し、快気して帰途のおり七字題目(ななじだいもく)「南無妙法蓮華経」と一石に書かれた。上人入滅(にゅうめつ)後、その高弟日朗(にちろう)上人が筆跡をそのまま石に刻み、後世に伝えたという。

これが七字題目「南無妙法蓮華経」の板碑である。別名「経題石」(きょうだいせき)とも後世喰い初めの霊験あらたかだったので「喰初仏」(くいぞうぶつ)ともいわれ、人々の信仰を集め、寺の本尊になっている。

題目碑は那須系の安山岩でできていて、頭部と両側に打欠き、背面も落として板石状に整形している。高さ1.26m、幅は中部で67㎝、厚さ21㎝である。前面にいわゆる髭題目(ひげだいもく)を大きく刻み、両側に願文や紀年・願主などの刻名がある。

碑文は、次の通りである。

 

右志者為一結 衆現世安穏

○○○○卯月○○○

 

南 無 妙 法 蓮 華 経

結縁諸衆敬白

後生成仏乃至法界利益

 

○○については磨滅(まめつ)のため、判読不能であるが、伝承による日蓮上人病気のための来湯は、文永2年(1265)であるので、この年か、または松平定信の「集古十種」によると、「元享2年(1322)壬戌卯月十三日」と読めたとあるので、このいずれかとも考えられる。

この碑は、当地域にある題目碑として古く、金石文としても価値が高い。また日蓮上人の関係書類としても貴重なものである。

 

べこ石の碑

峯岸の国道294号(旧奥州街道中)の西側に建っている。この碑は、芦野宿の問屋をつとめた戸村忠恕(とむらただひろ)が晩年になって里人の人に正しく生きる道を論すために、嘉永(かえい)元年(1848)10月建立したものである。

べこの石の名の由来は「べこ」とは東北地方の牛を称する言葉であり、この地方が東北の地と隣接しているため牛を「べこ」と呼び、石碑の形が牛の寝ている姿に似ているためと考えられる。また、碑の全面右側に人身牛首(じんしんぎゅうしゅ)の炎帝神農氏(えいていしんのうし)の姿が彫られているからとも考えられる。碑は芦野石で文字の部分で高さ140㎝・幅390㎝ほどの大きさである。

碑文の主な内容は孝行の大切さと善行のすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重、貧しい者への恵みの心、人の行為の根本は誠であること。物欲や自慢の戒め、備えの大切さと美食の戒め、めぐる因果を自覚すること、祖先を敬い親族を大切にすること、中庸(ちゅうよう)の大切さと立腹の戒め、禍いを生む言葉遣いの戒め等々、全文で3500字も及ぶ長文である。実例やたとえを用いながら儒教(じゅきょう)的精神を中心とした人の道を具体的にやさしく教えている。

この碑文を通して、江戸幕府末期の民情風俗や社会、経済及び当時の道徳思想を直接知ることがで、歴史的文献として重要である。

諭農の碑

板屋(いたや)の国道294(旧奥州街道)の坂の途中西側に建っている。嘉永元年(1848)4月建立で、撰文は芦野の戸村忠熙恕(とむらただひろ)によるものである。碑は芦野石で高さ170㎝・幅は80㎝ほどの板状で、正面に磨いた面に字を彫りこんでいる。

碑に刻まれている文字は、全文約700字からなっている。碑文の主な内容は農民に農耕上の指導を具体的に述べている。病虫害の駆除から予防、米の保存法、饑饉(ききん)に備えての貯米・貯穀、饑饉の時の食物栽培、食物の製法、ひもじい人への看護と食事の与え方にまで及んでいる。

「べこ石」の碑文が、人間の生き方の基本的な事柄を教えているのに比べて、この碑文は主として農業上の技術面について論じていて、農民にとっては実生活に役立つ内容になっている。

幕末における農業の様子と農業指導のあり方を知る上で貴重な碑といえる。また、この碑の建立にあたっては地元、板屋の人々の強い願いのあったことが碑文の一部からわかる。

人見本曽良日記

松尾芭蕉(まつおばしょう)が「奥の細道」を旅したのは元禄2年(1689)のことであり、門人の曽良(そら)はこれに同行し「曽良日記」を残している。

「人見本曽良日記」はこの「曽良日記」の一部分を抜粋した写本で、那須湯本の温泉神社(人見家)に伝わっている。日記の期間は、元禄2年3月20日から5月17日までで、江戸深川から尾花沢までのものである。和紙半紙版に毛筆で書かれ、表紙とも21枚とじである。奥書(おくがき)があり、嘉永5年(1852)に書かれたことや、筆者は人見家祖先の人見氏綱(うじつな)であることが記されている。人見家は、芭蕉師弟が2泊した「湯本五左衛門」の本家にあたる。

しかしこの写本は、氏綱が「曽良日記」を直接写したものではなく、原本について二通り考えられている。

一つは、高久家(芭蕉師弟が2日宿泊した)にあったという曽良直筆のもので、これは「高久本」と呼ばれている。高久家は名主(なぬし)を勤める家柄であり、原街道(はらかいどう)開通後は問屋(とんや)をも兼ねた旧家である。「高久本」は、曽良が尾花沢までの日記を抜粋し、なんらかの理由で高久家に伝えたものと思われるものである。人見家は高久家とも親しい関係であったとことから、この「高久本」を写したものではないかといわれていたが、内容から別なものと判明した。(高久本参照)。

もう一つは、黒羽藩の郡奉行(こおりぶぎょう)で歌人でもあった小山田永樹(えいじゅ)が書き写した「小山田本」と呼ばれているものがあって、これを書き写したのが「人見本」ではないかと考えられているが、「小山田本」の所在が不明なため定かではない。

いずれにせよ「奥の細道」関係書類をして貴重なものである。

絹本墨書 聖天掛軸

芦野の真言宗寺院である台明山明星院三光寺は、日本三所聖天の一つと称される聖天の守護寺である。芦野の聖天様として、その名が知られている。同寺の創建・開基、現在地への移転などについては不詳である。また、聖天の縁起その他も詳らかではないが、寺は弘治年間(1555~58)、戦国時代後期頃宥徳上人の中興開山と伝えられているが、寺所蔵文書によると応永年間(1394~1428)に遡ることができるという。

平成17年8月には600年ぶりに秘仏聖天の御開帳が行われた。

この寺に、江戸幕府の老中首座となった松平定信の筆による「聖天」の文字が絹本に墨書された縦41㎝、幅80㎝大のものである。「文化八年辛末九月七日壬午書之」とあり、「従四位下左定信」と位置書が割書きで記されている。

文化八年(1811)は定信が老中職を退いた(寛政5年・1793)後のことである。

位置書や割書き、添書などにより、定信の筆によることは明らかであり、当時の当主芦野資勝(中務のち弾正)の時代(1810~37)に、芦野家が依頼し、奉納されたものとみられる。実質、依頼・奉納を担当したのは添書に記された芦野家家臣山田軍記、平久江冠司、平久江寛八郎であると考えられる。3名とも同時代に家中分限帳に記載されている人物である。

松平定信は老中職就任にあたって強い決意が聖天信仰へと結びついたことは広く知られたことである。

日本三所聖天の一つとして現在も知られる芦野の聖天様の歴史と民間信仰を物語る資料である。

芭蕉懐紙と高久本曾良日記

奥の細道紀行の途次の元禄2年(1689)4月に那須町を訪れた芭蕉と曾良は、16日に大田原市の余瀬を発ち、野間を経て高久で二泊する。

高久のことは紀行文には記載がなく、曾良の随行日記によると

……高久二至ル 雨降リ出ニ依滞ル 批間壱里半余 宿角左衛門 図書より状被添

一十七日 角左衛門方ニ猶宿 雨降 野間

八太田原より三里之内 鍋掛より五六丁西

一十八日 卯剋 地震ス 辰ノ上 剋雨止

午ノ剋高久角左衛門宿ヲ立

とあり、高久角左衛門方に宿泊したことがわかる。このとき芭蕉と曾良が連句し、懐紙に認めたものが「芭蕉懐紙」として高久家に伝えられている。

 

みちのく一見乃桑門同行二人

那須乃篠原を多つ年て殺生石ミむとて

急き侍る程尓あ免降り出介れ者

此登ころ尓とゝま利候

風 羅 坊

 

落くるや多かくの宿能郭公

木の問越のそく短夜の雨

曾 良

 

懐紙は前文4行に芭蕉と曾良の連句の形式をとっている。

また、高久家には曾良日記の抄本が所蔵されている。

文化12年(1815)に写されたもので4月1日の日光から21日の矢吹までのもので表題は「曾良陸奥日記抄出」とあり、末尾に「右日記信州諏訪高嶋曾良俗縁ノ子孫コレヲ所持スト云」の断り書きがある。「可郡良主人」がこれを写した。

曾良日記は、高久本のほかに人見本曾良日記がある。人見本は嘉永5年(1852)であるが、それより38年前の写本である。

句集「常盤木」と献句集

句集「常盤木」は元禄2年(1689)に健式山湯泉神社へ大塩桃風が奉納したものである。巻頭に「武江の俳師福田氏高井氏の佳句以雑録之為一書題木□取其不変之義奉賀」とある。武江とは武州(武蔵国)江戸のことで、高井氏は法師立志であり、福田氏は風琴子露言である。

常盤木には、次の俳人の名が記されている。高井立志、風琴子露言、一井寸柳、奥田方雨、大輪忠直、大塩桃風、太地洗車、彦都の座頭聴計、竹風軒白堂、神原露計、中島仙嶋、大塩登岸、江府住桃志、桃英神田親昌、松本満茂、小山田桃吟の計16人である。

当時の芦野家当主は民部資俊で和歌俳諧の道に造詣の深いことは知られており、左近資親(桃艶)の父である。

常盤木は江戸から俳諧師を呼び句会を催した作品集である。このとき和階堂立志法師と資親との連句に、

短夜のねむけなきほど鳴け蛙

資 親

涼しき月にそむくろうそく

立 志

句集の中に桃風、桃英と桃の字のが多く見られるのは、芭蕉翁の流れをくむ系統であることが推測される。この中には芦野家家臣の名前も見られ、大輪忠直、大塩桃風、神田親昌、松本満茂、小山田桃吟などはそれぞれ大輪左太夫、大塩角左衛門又は同玄内、神田彦兵衛又は同新七、同平兵衛、同為右衛門、松本三右衛門又は同半九郎、小山田利右衛門又は同太兵衛などが考えられる。

また、20代資親が奉敵した句集は社宝として伝えられてきた。その箱書に

于時元禄六癸酉九月十九日

桃艶敬白

とある。奉敵された句集の題辞に

野州那須郡芦野

湯泉大明神之宝社仁天(にて)

藤原姓 桃 艶

桃艶の自筆であろう。当主芦野資親の俳号は桃艶と称したので、この句集は資親が奉敵したことがわかる。

松杉や鳥居の外は薄もみじ

桃 艶

温泉大明神の景観を詠んだものといわれている。

松本風阿と奉納百首和歌

白川関鎮守玉津島社奉納と表書きされた和歌集がある。境の明神福島県側の石井家にあったものであるが、現在は白河市へ移管し同市の管理するところである。

白川関鎮守とあることころから、白河市旗宿にある白河の関に鎮座する玉津島神社へ奉納したものであろう。

奉納者の松本風阿は芦野家の家臣であり、天保8年丁酉6月9日に死去し、露庵風阿居士の戒名しか分かっていない。

当時の松本家の人物は、「伝内」と「庄次右衛門」がいる。「庄次右衛門」は現在の福島県西郷村に生まれ、子の代助とともに芦野家の松本風阿の養子になったとの記録があるため、風阿は「伝内」と考えられている。

芦野の当主は代々歌道に優れていたと伝えられ、13代資興は後柏原院から「あつさ弓はるかにあげてなのりその猶うちそふる和歌のうらなみ」の一首を賜ったという。江戸期に入り、旗本3代目の資俊とその子資親は俳句を好み、資俊は俳聖芭蕉との交流が知られ、健武山湯泉神社奉納の句集「常盤木」や句献集には多くの家臣に作品が掲載されている。

文敵上の確認は以上であるが、天保期に奉納された「和歌百首」はこれら文武に秀でた武士の存在を示すものである。

 

 

木戸孝允(1833~77)とその書

通称桂小五郎(かつらこごろう)といい、長州藩出身の勤王(きんのう)の志士・明治新政府指導者の一人である。大久保利通、西郷隆盛等と共に明治維新の三傑といわれた。号は松菊・木圭などいくつかある。この書跡は旧芦野町役場所蔵のものである。明治9年6月12日に明治天皇東北巡幸の時、芦野町行在所(あんざいしょ)(戸長(こちょう)戸村氏宅)に一泊された記録が残っている。その時に随行員として来ていた木戸考允によって書かれたものである。

山 鳥 相 和 喜

池 魚 伴 游

明治九年六月

松菊書

(読み方)

山鳥相和(やまどりあいわ)して喜び

池魚結伴(ちぎょけっぱん)して游ぶ

 

(意味)

「山の鳥たちがお互い仲良く喜び池の魚たちは群れ伴って楽しく泳いでいる」ように「芦野の町民達は四民平等の明治の世の中になってお互い喜び合い、天皇御一行も御巡幸され、感激して行列をつくってお迎えしている。」

勝海舟(1823~99)とその書

勝安房(あわ)ともいい、江戸末期の幕臣であった。幕府海軍伝習所の指導者。万延(まんえん)元年(1860)咸臨丸の船長として、太平洋を横断。江戸城無血開城の際の西郷隆盛との会談は有名。維新後は海軍卿、枢密院顧問などを歴任。

 

明治21年12月10日御殿山中腹に芦野小学校新校舎建築の時、勝海舟より揮毫を受け、渡辺伝校長の時玄関門柱と扁額にした。

「小学校玄関門柱彫刻」

愛惜精神留他日担当宇宙

蹉跎歳月問何時報答君親

(読み方)

精神(せいしん)を愛惜(あいせき)し、他日(たじつ)、宇宙(うちゅう)を担当(たんとう)するに留(とど)めよ

歳月(さいげつ)は蹉蛇(さた)し、何時(いずれ)、君親(くんしん)に報答(ほうとう)するを問(と)わん

(意味)

精神(理性)をいとおしみ大切にし、将来、広い世界にはばたくために心しなさい。

月日はあっという間に流れてしまう。成長し、大人になってから、国家や家族にむくいられるようになっているだろうか。

「扁額」

志在千里 戊子夏日(明治21年・1888)

(読み方)

志(こころざし)、千里(せんり)に在(あ)り

(意味)

目先のことにとらわれないで、目標を高く持って突き進みなさい。

原文は、「老驥状櫪志在千里」(中国魏の曹操の詩)といわれている。