有形文化財/建造物
伊王野温泉神社本殿
伊王野の集落の上手(上町霞岡)にあり、通称「ゆぜん様」と親しまれている。
祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)であり、その他多くの神々が祀られている。
創立は和銅2年(709)で、現在地に移ったのは、大同2年(807)と伝えられているが明らかではない。伊王野資長(すけなが)がこの地に領地を与えられ、仁治2年(1241)に社殿を造り、八幡宮もあわせて祀ったと伝えられている。
以来伊王野氏代々の信仰あつく、伊王野郷の人々に崇敬されてきた由緒ある社である。
江戸時代初期、伊王野氏改易後幕府の直接支配地となっても伊王野の総鎮守として地域の崇敬を受けてきた。
この間、正和3年(1314),永享9年(1437)、天正13年(1585)、寛文3年(1663)、嘉永5年(1852)に造営が行われたことが、諸記録で分かっている。
現在の本殿は大正13年(1924)に建築されたもので、様式は流れ造銅板葺である。間口が1間(1.8m)、奥行き2間(3.6m)で面積は2坪(6.5㎡)である。建築材は欅を使用しており、床は高く、縁をめぐらし勾欄を持っている。屋根は優美な曲線で長く流れている。
本格的な神社建築であり、幣殿や拝殿と調和して美しい建物となっている。
大沢の天稲荷社社殿
大沢は昔、火鑓村(ひやりむら)とよんだので、通称「火鑓の天稲荷」、「火鑓明神」ともいわれている。当地の高根沢家三戸の氏神様である。
宝暦、明和の頃、(1751~1772)、高根沢氏の祖先で、占術を良くした高根沢センが稲荷様を深く信仰し、社殿を建てたことに起こるという。
社殿は流れ造りの一間社で総欅造りであり、屋根は柿葺きで、覆屋が設けられている。この欅は八溝山から運んだ一木造りの伝承がある。天明6年(1786)の造営であり、小形ながら社殿の周囲は正統派と見られる優秀な彫刻をつけ、彩色はされていないが、稀にみる手のこんだ優秀作である。社殿前には石灯籠が2基あり、明和4年(1767)の銘がある。鈴は寛政3年(1791)の銘がある。これらのことから、この天稲荷社は江戸時代後期の明和・天明・寛政の頃に整備されたとみられる。
社殿に向かって右下には墨で書かれた
天明六年丙午
六月吉日
彫物子
石川幸右衛門
常盈
の文字が見られる。
なお、石灯篭の願主に日光や芦野の人名や講中の名が刻まれており、かつては遠近からの信者で賑わったことをうかがわせる。
当村は、那須湯本と白河方面との湯街道途中にあり、那須入湯の繁盛とともに当社の信仰も盛んになったものと思われる。
三森家住宅
三森家は、伊王野の下平にある。ここは、中世以降の関街道が通っていたところで、丘陵を背にして南向きのやや高台に長屋門と主屋が建てられている。当家は、江戸時代に交代名主及び問屋を勤めていた。
主屋は茅葺き平屋の寄棟造りで、間口約22m、奥行き約10mある。この地方では規模が大きく、民家として代表的な建築物である。粱は松材を用い、ちょうな削りで木材を自然のまま巧みに組み合わせている。土台には栗材を使用している。
間取りは中央より左右に土間の部分と座敷の部分からなっている。土間部分には「いろり」と「うまや」がある。座敷部分にはかつて6部屋が推測され、右奥には上段の間がある。また、前廊下のほぼ中央に正面式台がある。
なお、主屋前面には長屋門があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。
昭和58~60年度に、3ヶ年の歳月をかけて長屋門とともに解体・復元工事が行われた。このとき発見された木枠には、「享保拾八年丑五月吉日」と墨で書かれており、現在の建物は享保18年(1733)に建てられたものと考えられている。しかし、三森家には「星宮」という氏神があり、その棟札に天和3年(1683)と書かれており、三森家の歴史は享保以前にさかのぼると考えられている。
また、「下野国那須郡下平村三森長右衛門住家」や「仙本大工半兵衛作之」と書かれたものも発見され、三森家の住所や世帯主、建築した大工の名前などが明らかになった。
芦野氏陣屋裏門
芦野上野町にある芦野氏の城門で、陣屋の裏門として建造されたものである。
芦野氏陣屋跡は、通称「御殿山」とか「桜ヶ城」とよばれ、明治初年までは、二の丸の広場に藩の政庁ともいうべき表向きの建物と領主の住居とがあり、出入り口は表口と裏口の二通りがあった。
現在の正式の登り方が表口であり、途中で左折して別途をたどると二の丸の北端に至り、そこが裏口(裏門)となる。この門はこの裏口に建っていた門である。
明治4年(1871)の廃藩置県で芦野氏の陣屋が解体された時、旧家中の大塩家が買い受け現在地に移築復元されたものである。
長屋造りで、正面右側が仲間部屋、左側は厩であった。欅・栗・杉材などが使われ堅固な造りになっており、風格のある門である。
本町においては、戦国時代から江戸時代にかけての陣屋形式の唯一の原形をとどめるものであり、当時の建築様式や陣屋の構え等を考察する上で重要な建造物である。
平久江家門及び構え
平久江家は、芦野仲町交差点を東に登った道路の左側にある。この地は根古屋(ねこや)と呼ばれていてその道路を更に進と、天台宗揚源寺(ようげんじ)に続く。この道は、かつての芦野氏陣屋(城山)の大手口にあたる。
平久江家の門は、上級武士に許された格式の高い棟門の形式で建築されている。現在の門の建造年代は、あまり古くはないがこの地域における比較的上級の武家の門としての価値は高い。
大手の道と屋敷との境には石垣を積み、その間に門を建て、門を入ると左側から延びた石垣が直角に正面行く手をさえぎり、桝形を構成している。古くは土堤であったが、その当時より桝形につくられていたことは変わりなく、武士の時代の屋敷の概要が偲ばれる。
平久江家の門と構えは、幾度かの改修等が行われたとしても、武家屋敷のものとして現在に残る貴重な建造物である。
安達家蔵座敷
蔵座敷のある安達家は、江戸時代から屋号を「丁子屋」(ちょうじや)といって芦野仲町のほぼ中央にある。
芦野宿は、芦野氏が居館を築いてから、その城下町として発達し、更に江戸時代になって奥州道中が整備され、交通・産業が盛んになると、宿場町としても発展した。
夫婦石と板屋の一里塚のほぼ中間点に位置して、関東北端の宿場でもあり、大いに賑わいをみせた。最盛期には、宿屋42軒・雑貨屋13軒が軒を並べていたという。
安達家の本屋は、すでに改築されているが、蔵座敷は当時の造りをよく残している。座敷は八畳二間があって「床の間」や「違い棚」があり、意匠・構造ともに優れて、当時の座敷の代表といえる。この蔵座敷は、現在でも「丁子屋」を訪れる人々に提供されている。
江戸時代においては、身分の高い人々は身の安全と宿泊中の安全を図って、この様な堅牢な土蔵造りの部屋を利用したわけである。
この蔵座敷からも、当時の旅の様子と芦野宿の繁栄をうかがい知ることができる。
旧黒田原郵便局
黒田原郵便局は、明治9年(1876)寺子村小島郵便局として寺子村小島(現那須町大字寺子丙)に開局された。その後、明治25年(1892)4月、前年の東北本線黒田原駅の開業に伴い、局舎を旧黒田原駅前(現那須町役場付近)の寺子字上原3968-4へ移設し、局名も「黒田原郵便局」と改称した。
明治42年(1909)に和文電報取り扱い開始し、昭和4年、(1929)には電話交換業務を始めた。開設は44番までであり、同45年(1970)黒田原地域の電話が自動化されるまで続けられた。
現在残る建物は、昭和10年(1935)に関東地方で最初のモルタル局舎として新築されたもので、当時の郵便局のモデル局舎とされていた。その後増築を繰り返し、昭和48年(1973)3月、現在地(寺子丙3-181)へ移転するまで使用された。
山田資料館
山田資料館が建っている黒田原地区は、現在那須町の中心に位置するが、明治20年代初めまでは木々に覆われた原野であった。明治24年(1891)に山田顕義が官有地であったこの地を借り下げ、開墾事業を始め山田農場を開いた。現在の那須町大字寺子乙、丙、富岡にまたがる地域で総面積111町4反歩余(約110ha)であった。一般では山田農場と呼ばれているが、山田家の人々は黒田原農場と呼んでいたようである。
山田顕義は旧長州藩士で明治維新では大きな功績をあげ、維新後も参議兼工部卿、内務卿、司法大臣等を歴任し伯爵に列せられた人物である。また、日本法律学校(現在の日本大学)、國學院(現在の國學院大學)の創立者としても知られる。顕義は開墾を始めた翌明治25年(1892)11月に49歳で他界してしまうが、没後も久雄(親戚の河上家から入る)、繁栄、(顕義弟)、英夫(顕義の娘婿)、顕貞(英夫長男)、顕喜(顕貞長男)と、その志は遺族によって引き継がれていく。
山田資料館は山田家の意向で農場事務所跡を平成12年(2000)3月から一般公開している。山田家関係者の写真、山田家使用の調度品、山田顕義関係の文敵、山田農場資料等、山田家ゆかりの資料が展示されている。当時の事務所は戦時中は疎開した山田家の住居として、またその後も別荘として使用されてきた。
なお、上の原地区には山田家代々の名を刻んだ謝恩碑が建立され、現在も山田家の人々が訪れ、毎年11月には山田家の遺徳を偲ぶ祖霊祭が行われている。
那須町民俗資料館
現在那須町役場の裏手に建っている那須町民俗資料館は、元々は明治43年(1910)に種々の模型を収納展示するために、皇居の吹上に建築された模型資料館であった。昭和48年(1973)11月にそれを那須町が払い下げて、移築復元したもので、町制施行20周年を記念して翌年11月1日に開館した。急激な生活の変化に伴い、いつしか消滅する可能性のある貴重な資料を収集し、後世に広く伝え、郷土のくらしの推移を理解してほしいと願いをこめて展示、公開してきた。主な展示品は明治~昭和期までの衣食住および農業、商業、漁業など生活用品である。
また、明治24年(1891)に旧国鉄東北本線黒田原駅舎として建てられたものを、昭和51年(1976)に民俗資料館隣に移築し、第2資料館として使用してきたが、老朽化に伴い、平成12年(2000)解体された。
黒田原駅舎
明治時代になり、日本鉄道会社による鉄道開設が始まった。東北線は、明治20年(1887)7月に黒磯―白河間が開通し、同24年(1891)9月に黒田原駅が現在の那須町役場前に開業した。現在の相生町1や本町1の北側の地域のほとんどが駅構内であり、この時期に芦野をはじめ多くの人々が移り住み、薪炭業、運送業などを開業し、駅前には集落ができた。
しかし大正4年(1915)4月に、急勾配であり曲線が多いという理由から黒磯―白河間の路線変更工事が行われ、同9年(1920)には黒田原駅が開設し、その後昭和に入って、若干移転し現在の地へ移転した。現在の駅舎は昭和15年(1940)に建てられたもので、その後、増改築が行われたようだが、詳細は不明である。
なお、旧黒田原駅舎は、明治24年から大正9年までの約30年間を駅舎として人々の荷物や乗り降りを見守り、駅の移転によりその役割を終えた後は、払い下げになり煙草専売所の事務所や住宅として利用されてきた。その後、昭和50年代には町の第2民俗資料館として再生したが、老朽化が進み、平成12年3月解体された。現在は屋根瓦と写真が残るのみである。