記念物/史跡

殺生石

殺生石は、那須岳の麓那須温泉神社本殿より北に200メートル湯本温泉街湯川に沿った駐車場の奥、硫黄のにおいがただよう荒涼とした所にある。昔から「白面金毛九尾の狐」にまつわる伝説上の名所旧跡であり、全国的に知られている。「九尾の狐」物語は、平安時代を舞台としているが、文敵上は室町時代の文安2年(1445)に書かれた「下学集」(げがくしゅう)に初めて登場する。やがて、謡曲「殺生石」が日吉佐阿弥安清(ひよしさあみやすきよ)によって書かれたり、江戸時代になると演劇の題材となり、「玉藻(たまも)の前あさひの袂(たもと)」「三国妖婦伝(さんごくようふでん)」など昭和55年には中村歌右衛門による歌舞伎上演され人気を博した。こうして広く世間に知られるようになった。物語はおよそ次のようなものである。

平安の昔、天竺(てんじく)(インド)、唐(から)(中国)から飛来して来た九尾の狐は玉藻の前という美女に化けて宮中にもぐり込み鳥羽院の愛する妃となった。鳥羽院はその美しさに魂を奪われ日に日に衰弱し床に伏すようになった。やがて陰陽師の安倍泰成(あべのやすなり)が正体を見破り、狐は逃亡した。そしてここ那須野ヶ原において、人や家畜に大きな害を及ぼした。そこで朝廷の命を受けた、上総介広常(かずさのすけひろつね)と三浦介義純(みうらのすけよしずみ)が狐を追い詰め討ったところ、狐は巨石に化身し、毒気をふりまき、ここを通る人や家畜、鳥や獣に大きな被害を及ぼした。やがて室町時代になり、源翁和尚(げんのうおしょう)がここに来て石にむかって一喝すると、石は三つに割れ狐の霊はどこかに去ったが毒気は今猶発散している。物語はこのように、インドや中国、日本にまたがる3500年に及ぶ雄大な歴史背景を持ち、美女や妖怪、貴人などが登場し怪奇でスケールが大きい。

芭蕉もここを訪れ「おくのほそ道」には、「石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほ程にかさなり死す」と書き、次の句を残している。

石の香や夏草あかく露あつし

また、明治になり麻布の句に

飛ぶものは雲ばかりなり石の上

がある。

堂平仏堂跡および茶畑上代集落跡

伊王野地区の東岩崎堰の上の山林で、通称、堂平と呼ばれる地点の仏堂遺跡とその隣接地にある古代の集落跡をいう。

大正末期、この地を開墾した際、地下60㎝から礎石が整然と配置された仏堂風の遺構が発見された。須彌檀(しゅみだん)跡と思われる地点からは、金銅薬師如来座像(こんどうやくしにょらいざぞう)が出土した。この座像は、高さ15.3㎝、肩幅8.0㎝、座幅12.7㎝で鉄製の長方形台座にのり、百済(くだら)様式で一度火にあった形跡がある。また、この遺構内外から土師器(はじき)、須恵器(すえき)が出土し、釘や鉄の塊なども発見された。

さらに昭和13年春、これより50m西の丘陵中腹の茶畑から、やはり百済様式の銅製誕生釈迦立像(どうせいたんじょうしゃかりつぞう)(高さ8.2㎝)が出土した。

これらのことから、この仏堂跡は、奈良時代以前に建立され、いつの世にか火災によって消滅してしまったことなどが考えられる。

しかし、この遺跡、遺物の歴史的意義は大きい。すなわち、日本書紀にある新羅人(しらぎじん)を下野の地に住まわせたこととも考え合わせると、東岩崎の地は、7世紀後半にすでに大陸とつながりを持った地域であり、先進的な技術や知識を持った渡来人が種々の理由でこの地に住み着いたものと思われる。

本遺跡は、大陸文化とのつながりを示す本町における最古の歴史的シンボルである。

門場縄文式遺跡

標高410m、大島本村に位置し、余笹川右岸の低い台地にある。縄文時代中期(約5000年前)から晩期(約3000年前)までの土器片や石器類の遺物がみられ、約2haに及ぶ集落遺跡である。

この遺跡は東大人類学教室や県文化財調査報告の資料にも記され古くから知られていたが、昭和46年渡辺龍端氏等によって発掘調査され、6つの住居跡や土擴の遺跡が発見された。他にも多数の土器片や石器類が出土している。土器片には縄文中期の阿玉台・加曽利E式、同じく後期の堀之内式等がある。石器には石鏃(せきぞく)・打製石斧(だせいせきふ)・磨製石斧(ませいせきふ)・石匕(せきひ)・石錘(せきすい)・敲石(たたきいし)・多孔凹石(たこうくぼみいし)・石臼(いしうす)・石皿(いしざら)等が収集されている。これらの発見遺物の多種多量さや遺跡の大きさ、それに那須野ヶ原の北限に近いという分布上からもたいへん重要である。これらの発掘資料は県の博物館に保存されている。

那須町には、7000~6000年間の長い期間にわたり、原始の人々の生活舞台になった縄文の遺跡や遺物の出土地が250ヵ所以上もある。これは全国的にみても稀であるという。那須町の地は、すでに縄文時代の昔から人間の居住に適した自然環境を有していたことになる。門場遺跡はその代表の一つである。

赤坂西丘北縄文式遺跡

この遺跡は、伊王野の町並の中心から南東1㎞にあり、八溝山塊西麓の丘陵頂上に位置している。三方を小さな谷に囲まれ、標高は270m、谷からの比高は約30m、面積1.7haである。

現在判明する関東最古の縄文時代初期の遺跡で、草創期(約10000~8000年前)と早期(約8000~6000年前)が重複している県内でも貴重な遺跡で、県北で唯一のものである。

昭和29年(1954)に発掘され、石囲い炉をもつ住居跡の一部が発見された。その炉跡周辺からは、石器、土器片等が多数出土している。石器の中には、鍬形鏃(すきがたぞく)とよばれる古いタイプのもの、土器片の中には、草創期の井草式(いぐさしき)土器、早期の田土下層(たどかそう)Ⅱ式に近い二種類のものとが重複していた。

この遺跡は、後背地が八溝山塊、前には三蔵川、奈良川、黒川が流れ、縄文時代の前半期の祖先たちにとって最良の生活条件を備えた場所であった。本遺跡は現在、山林化し、またゴルフ場の北端に保護されている。

何耕地縄文式遺跡

この遺跡は、伊王野の町の南東にあり、何耕地といわれる小高い丘陵にある。標高256m 、平地からの比高は22mである。遺跡の北側下方には三蔵川が流れ、東と西には小さな沢があって三方が囲まれている。面積は約4haあり、縄文時代中期前半(約5000年前)の大遺跡である。

ここは明治から大正時代にかけて開墾された時遺物が発見され、その後も土器片などが多く見つかるので地元でもよく知られていた。渡辺龍端氏らにより昭和15年に試掘、39年に発掘が行われた。出土した石器は、石鏃(せきぞく)、石小刀(いしこがたな)、打製石斧(だせいせきふ)、石皿(いしざら)、大型の石棒(せきぼう)、磨石(すりいし)、石匕(せきひ)、石ノミ、凹石(くぼみいし)、などさまざまである。土器片も多数出土しており、縄文時代中期前半の標準的資料となるものが多い。特に、「阿玉台式土器(おたまだいしきどき)」といわれる形式の土器については新旧二つが出土し、特筆すべきものとなっている。

また平成4年にも遺跡の確認調査のため試掘が行われ、土器片や石器など多くの遺物が出土し、遺構も確認された。遺構は住居跡の床面や柱穴、袋状土坑(ふくろじょうどこう)と思われるものが数カ所で確認され、縄文時代としてはかなり大きな住居跡ではないかと思われている。

また旧石器時代のものと推定される焼土や炭化物も検出され、縄文時代だけでなく旧石器時代の生活の場所であった可能性が新たにでてきた。

上田弥生式遺跡

この遺跡は、旧富岡小学校南側の道路を隔てたところにある。標高は300mあり穏やかな斜面約10aの範囲に遺物が発見されている。主な遺物は剥片(はくへん)石器、凹(くぼみ)石・縄文土器片と弥生土器片などがあって、縄文と弥生の重複遺跡である。

この遺跡を町の指定史跡とした理由は、発見された弥生土器片は10数片にすぎないが、それらの土器が弥生土器特有の微小縄文(びしょうじょうもん)や特殊な縄文磨消(じょうもんすりけし)が施され、比較的薄手で焼き上げられていたからである。また、土器片の一つの表面には米の籾(もみ)の痕跡がみられたからである。このことは、この地周辺において稲作が行われていたことの証明であり、水稲栽培の始まりを示す重要な遺跡遺物である。

行人塚前期縄文遺跡

この遺跡は、伊王野赤坂(あかさか)上の県道那須黒羽茂木線沿いの小高い丘にあり、三蔵(さんぞう)川の南岸にあたる。この付近は南向の穏やかな斜面になっていて、約1haにわたって、遺物が発見されている。この地は、標高240m前後の丘陵端で、三蔵川岸からの差は約20mの急な崖の上になっている。

この遺跡は、縄文早期から前期・中期の初めまでの(約9000~5000年前)長い時代にまたがって、人々が生活を続けていたために、発見された遺物は多種、多様にわたっている。主なものには、石器では石鏃(せきぞく)・石小刀・石斧(せきふ)・石錘(せきすい)・磨石(すりいし)・石皿(いしざら)・凹石(くぼみいし)等多数が出土している。田戸下層(たとかそう)Ⅰ式・子母口(しぼぐち)式・諸磯(もろいそ)式の古い型式とあって、器の形は深鉢が多くみられる。さらには、土師器(はじき)片や須恵器(すえき)片なども多数発見されている。

追の窪晩期縄文式遺跡

この遺跡は寄居(よりい)の集落の北東のはずれで、豆沢(ずさわ)街道入口と沢川に囲まれたところにある。標高は約330mで、平地との差は10~20mあり遺跡の面積は約1haある。

この遺跡は、古くは昭和13年(1938)頃より確認されていて、表面の観察は数回にわたって実施されてきた。昭和29年(1954)には本格的な発掘が行われて、数々の遺物が掘り出されたが住居跡などの遺構の発見はなかった。

発掘された遺物の主なものには、石鏃(せきぞく)・石器・石錘(せきすい)・磨製石斧(せきふ)・打製石斧・石錘(せきすい)・石匕(せきひ)・石剣等があって多種にわたっている。土器はこの遺跡では最古の型式の「安行(あんぎょう)Ⅱ式」をはじめとして「大洞(おおほら)A式」、「大洞A’式」土器など、縄文晩期(約3000年前)のものを中心に多数発掘された。この遺跡は、縄文時代末の人々の生活を知るうえで貴重な遺跡といえる。

迯室無土器文化遺跡

この遺跡は、国道4号沿い迯室集落の北方、朝日(あさひ)小学校隣の穏やかな斜面上にある。遺跡の東西両側は低湿地になっていて標高は約400mに位置する。

昭和24年(1949)頃、この土地の地主がポイント(尖頭器)(せんとうき)・スクレパー(掻器)(そうき)・ブレイド(石刀)(せきは)等を発見して、これが栃木県内で最初の無土器文化遺跡であることがわかった。この後、昭和38年(1963)に本格的な発掘が行われた結果、この遺跡は那須町で歴史上最も古い無土器時代(1万年以上前)の遺跡であることが確かめられた。

発掘された主な石器には、ポイント(尖塔器)(せんとうき)、スクレパー(掻器)(そうき)、グレイバー(彫器)(ちょうき)、コア(石核器)、ブレイド(石刀)、フレーク(剥片)等多くを数えた。いずれにしても先人たちが未だ土器を知らない時代の遺跡であり町の重要な遺産である。

ハッケトンヤ縄文式遺跡および舟戸古墳群

ハッケトンヤ遺跡は、余笹(よささ)川と那珂(なか)川の合流点内側に位置し、丘陵の突端部で現在の黒川発電所の崖上のあたりにある。ハッケトンヤとは地名で、急な崖の上の小屋を意味する古語であるという。

この遺跡は、縄文時代中期(約5000年前)以降の代表的遺跡であり、大正時代、県道の改修や黒川発電所の開設工事で多くの遺物が出土し、一躍有名になった。面積は約30aである。

この遺跡からは、打製石斧(だせいせきふ)、磨製石斧(ませいせきふ)、石鏃(せきぞく)、石皿(いしさら)、土器片等多数発見され、加曽利(かそり)EⅡ式と同Ⅲ式のものが多くみられる。ここは平地からの高さが20mあり日当たりもよく、また那珂川と余笹川に挟まれ、狩猟、魚撈のための自然条件がたいへんよい場所である。平成17年7月、国道トンネル工事で遺跡の一部が掛かるため発掘調査が行われ、住居跡・土器・落とし穴等が発見されている。

このハッケトンヤ遺跡の下方平地の那珂川の河岸段丘上に舟戸古墳群がある。主墳の前方後円墳が一つと円墳が二つある。最近になって、県道北側の林の中に、これらよりもやや小型の円墳が二つ、新たに確認されている。

前方後円墳は、帆立貝式(ほたてがいしき)と呼ばれるもので、前方部が通常のものより短い。全長は約10mあり、高さは約3mある。石室は那珂川の安山岩を利用して造られた横穴式石室である。いくつかある円墳は、主憤より小振りであるが規模からみてこの地方の小豪族のものと思われる。被葬者やそれらの人々の居住地については不明である。

那珂川水系に多い古墳群のうち最北端のものである、関東最北端の古墳群である。