記念物/史跡

一里塚(夫婦石、板屋、泉田)

旧奥州道中(旧陸羽街道)は、「徳川実記」によると、江戸時代初期の慶長(けいちょう)9年(1604)5月に、開通したと記されている。その年の2月、徳川幕府は、諸国の大名に命じて東海道・東山道・中山道の各街道を修理させて、一里塚を築かせたといわれている。我が国では、織田信長が天正元年(1573)に、36町を一里(4㎞)として塚を築かせ、塚の上に榎などの樹木を植えさせたが、これを徹底させたのが江戸幕府であった。

夫婦石の一里塚は、那須町の最も南にあり、江戸日本橋より43里(172㎞)目の塚である。夫婦石と芦野西坂の間にあって、道路の両側に円形の塚が2基残っていて、保存状態も比較的良い。南側の塚は、宇高野原(こうやはら)で北側のは字簗場(やなば)に属している。

一里塚は、旅人によっては旅程の目標となり、時には榎などの木陰のもとで憩や休憩の場としても利用された。

那須町には、この一里塚の次に、44里目の「板屋(いたや)の一里塚」・45里目の「泉田(いずみだ)の一里塚」があり、奥州地方白河方面に続いている。この一里塚のある旧奥州道中は、江戸時代の主要な街道として多くの旅人の従来があった。一里塚は、当時を偲ぶ標柱ともいえる。

遊行柳

この柳は奥羽に連なる山なみの間、芦野の町並みや芦野氏陣屋跡が見える水田の中にあり、周りを芦野石の玉垣でめぐらしてある。所在地は、芦野の町並みの北西、国道294号(旧奥州道中)沿いの通称「上(かみ)の宮」と呼ばれている温泉神社参道の鳥居前である。

「遊行柳」の呼び名の他に、「道の(みち)辺(べ)の柳」、「清水流るるの柳」、「朽(く)ち木(き)の柳」、「枯れ木の柳」などとも書かれている。その起こりは、平安時代の西行法師が奥州を旅する途中、この地で、

「道の辺(べ)に清水流るる柳蔭(やなぎかげ)

しばしとてこそ立ち止まりつれ」

と詠んだことによるというが、確かではない。また、時宗19代尊酷上人(そんこくしょうにん)(遊行上人)が室町時代の文明3年(1471)頃、この地方を教化のために旅したとき柳の精が老翁となって現れ、上人に成仏させらてもらいその喜びに

「草も木も洩れぬ御法の声聞けば

朽ちはてぬべき後もたのもし」

と詠んで消え失せたという伝説がある。他に柳の精は女性であるとの話もある。

これらの話をもとに観世光信(かんぜみつのぶ)によって謡曲「遊行柳」が作られて、より伝説が広がり歌枕にもなる名所になっていった。そして江戸時代元禄(げんろく)二年(1689)、俳聖松尾芭蕉が訪れ「おくのほそ道」に記述されるに及んで一躍有名になった。

この地で詠まれた歌や俳句は数しれない。この柳の傍らに西行、芭蕉、蕪村の歌碑、句碑が建てられており、今なお訪れる人々が多い。

「今はまた流れは同じ柳蔭

ゆき迷いなば道しるべせよ」

蒲生 氏郷(がもう うじさと)

「田一枚植えて立ち去る柳かな」

松尾 芭蕉

「柳散清水涸石處々」(やなぎちりしみずかれいしところどころ)

与謝 蕪村

 

 

芭蕉翁塚 杜鵑の墓

国道四号線沿いの高久本郷、高久家の裏山である

この碑を建てたのは、高久村名主(兼問屋)の五世高久覚左エ門の孫清楓である。俳聖松尾芭蕉の滞在を記念し、芭蕉と高久家のつながりを後世に伝えるために宝暦4年(1754)に建てられた。「芭蕉庵桃青君(ばしょうあんとうせいくん)の碑(ひ)」とも、その時に俳句を埋めたので「杜鵑(とけん)(ほととぎす)の墓」とも称される。

芭蕉は元禄2年(1689)4月16日、門人曽良とともに黒羽からここ高久に来て名主覚左エ門方に泊まった。翌17日も雨のため泊り、18日殺生石を見ようと那須湯本へと向かった。曽良日記には、「落ちくるやたかくの宿の時鳥 翁(ほととぎす おきな)」と認(したた)め覚左エ門に授けたとある。

碑は安山岩を用い、上は切妻屋根の形で正面には「芭蕉庵桃青君之碑」と縦に刻字されている。碑に向かって右側面には、芭蕉の生い立ちや人柄、そして元禄2年に曽良とともに高久覚左エ門宅に投宿したこと等が記されている。裏面には、芭蕉翁の没年、埋葬地等が記されている。左側面には次の句が刻まれているが、それぞれ風蝕がひどく判読は難しい。しかし、芭蕉研究上たいへん重要である。

 

落ちくるや高久の宿の郭公(ほととぎす)

風 蘿 坊

木の間を覗く短夜の雨

曽   良

元禄2年盛夏

伊王野氏の新墳墓

伊王野城本丸の東麓に曹洞宗桃林山長源寺(ちょうげんじ)があり、その境内に墓域がある。長源寺は弘治元年(1555)伊王野氏18代資直(すけなお)の中興開基となり、それ以来の伊王野氏後期の菩提寺(ぼだいじ)として寛永10年(1633)の伊王野氏廃絶までの領主とその家族の墓がある。五輪塔4基、自然石碑3基が残っている。

伊王野氏は中世那須本家の発展隆盛と共にあったが、天正18年(1590)の秀吉小田原北条氏攻略の時、参陣が遅れ減封の憂き目にあった。しかし、慶長(けいちょう)5年(1600)上杉景勝の奥州軍を白河関山(せきさん)に破り、徳川氏より2000石加封され2738石となったが昔日の面影(約1300石)はなくなった。同年、資信の嫡男資重(ちゃくなんすけしげ)病死し、資重にその年生れの一子又六郎資直(またろくろうすけなお)があったが幼少であり、そのため資重の弟資朝(すけとも)(資友)が家督を継いだ。資朝も寛永(かんえい)10年(1633)5月に死去し、養子(資朝には男子がなかった)の資房(すけふさ)(井上数馬(かずま))も同年10月父のあとを追って早世した。数馬の病中に養子願いを出したが幕府には認められなかった。

ここに、資長(すけなが)以来約400年間続いた伝統ある伊王野氏も幕府の政策・法規により改易、断絶するのである。所領は天領(幕府直轄)となって代官手代により治められた。

墓域は徳川幕府にはばかってか暗く小さい。隣接する現代の豪華な墓石と比べ、かつての領主の墓と思われない質素さである。

芦野氏旧墳墓

国道294号線沿いで、上野町と唐木田の中間、山林中腹にある。館山城跡、熊野堂の芦野氏居館跡や那須連峰などを望み、当地域における中世以来の領主の墓として代表的な古墓ということができる。

南北朝時代の芦野氏の祖資方(すけかた)から、江戸時代前期の18代資泰(すけやす)の頃までの墓域であると伝えられている。五輪塔数基・自然石碑・笠付位牌形など種々の形式がみられ、ほかに五輪塔の残欠も認められる。本墓の頃の菩提寺は最勝院であった。

銘文の明らかなものは江戸時代のものである。寛永19年(1642)白露院殿(はくろいんでん)塔(資泰妾資俊実母)、正保3年(1646)の耀山法照居士(ようざんほうしょうこじ)塔(資泰)、同年銘の月咬院殿(げっこういんでん)五輪塔(資泰妻)、延宝3年(1675)の昌寿院(しょうじゅいん)塔(資俊母)などである。資泰は大阪冬の陣(1614)、夏の陣(1615)に出陣しており、将軍徳川秀忠の上洛にも2度お供している。

芦野氏新墳墓

芦野氏新墳墓は、御霊山(おたまやま)とも呼ばれ芦野(新町)(あらまち)の建中寺(けんちゅうじ)境内にある。寺の石だたみを上り、右側に折れるとやや小高い所に墳墓群がある。墓域は、奥まで約50m・幅は南側で7m、北側25mの細長い区域である。

本墓は、芦野氏19代民部資俊(みんぶすけとし)(資泰(すけやす)の子)をはじめとして、以後江戸時代末の27代資(すけ)原までの9代の墓域となっている。

資俊が元禄(げんろく)5年(1692)6月56才で芦野城内において病死して、建中寺に葬られてより、資源死去の安政(あんせい)4年(1857)4月までの165年間にわたり、当主9基の墓碑と夫人・子女等の墓碑22基の碑塔が建てられている。これら墓碑のうちで、最も豪壮なものは、19代資俊の墓である。地元産出の芦野石の玉垣を巡らし、石畳を敷きつめて大型の笠付位牌形(かさつきいはいがた)墓塔になっている。20代資親(すけちか)の墓碑は、大形の自然石の表面を磨いて碑としたもので、これも墳墓群の中で目を引く墓碑の一つである。他はほとんどが笠付位牌形で、何れも領主やその一族の墓碑塔としてふさわしいものである。

資俊は、芦野領地で逝去し建中寺に埋葬されたが、20代資親以降の領主は全て江戸に於いて逝去したため、駒込惣禅寺(そうぜんじ)に葬られて、分骨を本墓に埋葬したものである。

追分の明神 住吉玉津島神社

旧東山道(とうさんどう)の関東最北端追分地区にあり、福島県白河市と境をなす峠上にある。このため「境(さかい)の明神(みょうじん)」ともいわれている。かつては、両県にまたがって二つの社があったと言われているが、現在は関東側だけにあり、そのため「関東宮(かんとうぐう)」とも呼ばれている。

地元では「住吉玉津島神社」と呼んでいるが、これは住吉神社と玉津島神社の二社があわさったためと思われる。祭神は住吉の中筒男命(なかつつのおのみこと)と玉津島の衣通姫命(そとおりひめのみこと)である。どちらかの県がどちらかの神であったか明らかではないが、地元の祭の旛(はた)には「玉津島」とだけあり、栃木県側には玉津島神社が、福島県側には住吉神社があったとも考えられる。

古い歴史を持つ峠神(とうげしん)であり、江戸時代の「下野国野州(しもつけのくにやしゅう) 陸奥国奥州(むつのくにおうしゅう) 境神社旧記(さかいじんじゃきゅうき)」によると、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が延暦(えんりゃく)10年(791)蝦夷征伐(えぞせいばつ)の途中ここで休息したとき、白髪の翁(中筒男命)が現れ、田村麻呂と問答したという。田村麻呂はこのためここに祠を建て、中筒男命や衣通姫命を祀(まつ)ったとある。

ここは関東と奥羽境の峠にあり、道中安全を祈願する人々の信仰をあつめて栄えたものと思われる。近世になってからは奥州道中が本道となりここは脇街道となるので、それにしたがってこの峠神も衰退していったものと思われる。

社前には二つの石燈籠があり、寛文(かんぶん)7年(1667)と同9年(1669)の銘がある。追分村の井上源右衛門が寄進したもので製作がしっかりしており、この期の代表的な石燈籠である。

境の明神

旧奥州(おうしゅう)道中の関東最北端明神地区にあり、福島県白河市との境界にある。正式には玉津島神社(たまつしまじんじゃ)という。この社は古くかた峠神として奥州側と関東側にそれぞれまつられていたうちの関東側のものであり、祭神は衣通姫命(そとおりひめのみこと)であるという。

創立については天喜(てんき)元年(1053)の紀州和歌浦の玉津島神社の分霊を勧請(かんじょう)したのが始まりと伝えられている。関東と奥州の境界に接し、現在も二社が並んで建っている。近世になり、東山道(関街道)にかわって奥州街道が本道になると交通も発達し、それとともにこれらの社も発展して多くの旅人の信仰を集めたものと思われる。

松尾芭蕉(まつおばしょう)も元禄(げんろく)2年(1689)4月20日門人曽良(そら)とともにここを通っている。曽良日記には「寄居村有。是ヨリハタ村ヘ行ハ、町ハツレヨリ右ヘ切ル也。関明神ノ関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間二十間計有、両方ノ門前ニ茶ヤ有、小坂也。」とあり、社の前を行き交う道中の様子が想像できる。

境内には、文化10年(1813)や安政6年(1859)の石燈籠などが残っている。また明治41年建立の同社の記念碑があり、これによると延享(えんきょう)元年(1744)に大関氏が修復したとあり、また明治39年(1906)には民家の火事にともない社もまた炎上したとある。

明治の時代になって新国道や鉄道が開通すると、それにともない奥州街道の交通量も減り、同社も衰退した。

平成3年12月、拝殿及び附属建築物が氏子によって新築された。

伊王野氏居館跡

現在の伊王野小学校の校地すべてが伊王野氏居館跡である。この居館は鎌倉時代初期(約800年前)、伊王野資長(すけなが)の築城と伝えられている。資長は、那須余一の異母弟で那須家の惣領となった頼資(よりすけ)の次男である。

ここに居館があったのは、室町時代の長享(ちょうきょう)元年(1487)頃に後背地の山城に移るまでの約300年間とさらに下って江戸時代の寛永(かんえい)4年(1627)から同10年(1633)の6年間であった。

この居館は伊王野谷の最も広い所に位置し、当時の主街道の一つである東山道沿いにある。この形態は背後を流れる根岸川(ねぎしがわ)を利用して四方に掘を巡らし、その揚げ土で土塁を築き、回字形プランを持つ中世居館の典型的なものである。

明治の地租改正時の実測公図によると、住時の居館の面影をほぼ完全に残していることがわかる。すなわち土塁はすべて残っていて、堀の東側は畑になり、南側は破壊されて道となり、西側はわずかに町掘として形跡をとどめていた。北側は根岸川利用なので、そのままの状態であった。居館の大きさは東西約111m、南北約126m、面積約1.5haで当地域の居館としては大きい方に属する。

居館が山城に移った後の約150年間と伊王野氏断絶後の江戸時代初期以降は正福寺境内(しょうふくじけいだい)となっていた。明治以降は、小学校や村役場が建てられ、土塁等も破壊されてわずかに小学校北側にその面影を残すのみとなっている。

芦野氏居館跡

周りを水田に囲まれた一段高くなった畑地で、いつの世にか北側中央に熊野権現がまつられていたので熊野堂と称されている。

居館跡の畑地は東西100m、南北120mあり、周囲にはかつて短冊形に、堀と推定される水田があった。内部には土塁がめぐっていたとみられるが、長い年月の間に削られ、北側にわずかにその痕跡が認められる。形式は那珂川町(旧小川町)神田城跡や現大田原市(旧黒羽町)枡型居館(ますがたきょかん)に似て、南北軸の長い典型的な「回字型(かいじがた)」の居館である。建物の配置等は未発掘のため不明である。

「吾妻鏡(あずまかがみ)」の建長(けんちょう)元年(1256)6月2日の条に、「奥の大道(東山道)に夜討強盗が蜂起しているので取り締まるよう」鎌倉幕府が街道筋の御家人達に指示したとあるが、その中に「葦野地頭」の名がみえる。

また、遺跡の形式からみて鎌倉時代初期のものであり、これらのことからこの居館は、葦野地頭家が主人公と考えられる。

鎌倉時代に幕府御家人である芦野氏による支配がこの地を中心に行われ、芦野の荘が開かれていたことを物語る非常に重要な史跡である。